しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
マタイ15:25-28
久しぶりの韓国の友達から連絡がありました。
連絡がある時は決まって、何か聞いて欲しい話があるのです。自分でストレスを持ちきれなくなると連絡があるのです。
いつも決まって、誰かに傷つく言葉をかけられた・・から始まるのです。
自分を誤解している言葉をかけられ、他の人もそう思っているのか。自分にはそれほどの価値がないのか・・
と、心を痛めるのです。そして心が痛むと、全てが嫌になるのです。
何も手が付けられない状態になるのです。
教会に行くのも嫌だし、祈るのも嫌・・生きて行く事も嫌になるのです。
小さな心の傷は、とてつもなく大きな力を持ち、私たちを縛り上げ、良くない方向へと思考を向けるのです。
誰かに傷付けられ → 心に傷が付き → 全てが嫌になる → 生きる力を奪う
私たちは、何度もこのような同じ道を通っています。
不思議ですよね。
何度も何度も同じ道を通ているのに・・また同じ道を歩むのです。
どこからこの同じ道を歩まないように気を付ければいいのでしょうか。
傷付けられる所からです。
他人の何気ない一言を防ぐことは出来ません。
それを自分が受け取るかどうか・・です。
私も含め、私たちは、傷つかなくて良い所で、傷つくことが多いのです。
それが主からの言葉なのかどうか・・です。
誰かが自分を軽く見たり、例えバカにされたとしても、それで自分の価値が本当に下がるわけではないのです。
私の価値は主が決められるのです。
それだけが正しい価値なのです。
主からの正しい価値ではない、間違った価値を信じてしまうのです。
そう思うのと同時に・・多分、私の中に高慢な思いがあるから傷つくんだと思います。
自分の中に、自分が思っている自分の価値より低い価値で見られてるという事を、他の人の口から聞くから・・傷つくんだと思います。
自分で勝手に自分の価値を上げ、他人に勝手に自分の価値を下げられ、傷つくのです・・
どういう姿勢で日々、過ごせばいいのだろう。。
この価値を下げてくる人が親しい友達や家族、配偶者であれば、傷も大きくなります。
しかし、もしそれが、主であったら・・?
ハッと驚くかもしれませんが、身近な人に言われた時と同じ道は歩まないと思います。素直に自分が高慢であったと感じるのではないでしょうか。
人にかけられた言葉は心の傷になっても、同じ言葉であっても話した相手が主であれば・・
心の傷にはならないのです。
この違いはなんだろう・・
やっぱり、自分の中にある高慢な思いだと思います。
主には勝てないけれど・・身近な友達や配偶者には反応してしまうのです。
そんな事を考えていたら、聖書に出てくる「謙遜な信仰者」を、主は喜ばれています。
「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言った女性は本当に素晴らしい謙遜な信仰。
自分の部下の為に癒しを求めに来た百人隊長も、
「主よ。わざわざおいでくださいませんように。~ただ、お言葉を頂かせて下さい。そうすれば、私のしもべは必ず癒されます」
主の着物の端を触るだけで癒されると信じた、長血を患った女性。
主は、「謙遜な信仰」を持つ者の信仰に驚かれ、喜ばれています。
謙遜な信仰は、自分が小さな者であると知っている者が持てるのだと思います。
自分が小さい者であるという謙遜な思いがあれば、心の傷も減るかもしれません・・・
主に「謙遜な信仰を与えて下さい」と祈り求める一日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28-29)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」