しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
Ⅱコリント12:9
クリスチャンの友達で、主を信じながらも凄く苦しい思いをしている人がいます。
「自分は人を愛せない」「愛せているか分からない」「自分が人を愛している愛は、結局は自分の為ではないか」
と思うそうです。
信仰を持ちながらも、聖書の言葉が重くのしかかり苦しさを感じるようです。
このような気持ちを聞く度に思い出すのは、マザー・テレサの言葉。
『愛の反対は憎しみではない。 無関心だ』
無関心であること。苦しむ者に関わりを持たずに傍観者であることが愛の対極にあるという意味だそうです。
愛はプラスで、憎しみはマイナス。無関心は、好きでも嫌いでもないので「±0」のように思ってしまいますが。
無関心が一番良くない状態なのです。
「愛せない」という葛藤があるという事は、相手に対して少なくとも相手に関心があるのです。
「愛せない」という葛藤をもつのは、本人にとっては苦しく感じるかもしれませんが、
自分の事を「自分は愛する事ができない」「愛する事さえ出来ない人間」「愛のない人間」だと気付いているのです。
これは本当に素晴らしいと思います。
主には、法則の様なものがあります。
主が偉大だと心から感じれる人は、どのような人でしょうか。
自分には能力があり、人脈も能力も経済力もある・・と思っている人ではないです。
「自分は無力だ」と感じている人、心底、自分の無力さを悲しみ嘆く人が、主の偉大さを感じる事が出来る人なのです。
単に「自分は弱い」と思っているのではなく、主が望むレベルまで「自分は無力」だと痛感し、主に依り頼むしか生きていけないと感じる必要性があるのです。
自分の弱さを心底知っている人は、主の強さを心底感じる事が出来るのです。
主は私たちの弱さに働かれるからです。
これと同じで、
自分には愛がない・・と知り、悩み葛藤できる人こそ、主の愛を感じる事が出来る人なのです。
本当は主の愛を感じ、人を愛せる人なのです。
しかし・・・上手くいかない。愛そうと思っているのにそれが相手に伝わらず、反対に相手の気分を害させてしまう。相手を怒らせてしまうという事があります。
これはどうしてでしょうか。
私たちに愛がないのではないと思います。
「求めている愛情」と「与えている愛情」に差があるのです。
相手が今望んでいる「愛情の形」「愛情を感じる瞬間」と、、「自分が表現する愛情の形」が違う事がよくあります。
特に親しい中では、この様な事がよく起こります。
夫婦間で、親子間で、友人で。
親は子に「良かれ」と思って沢山話をします。(私もそうです💦)
子どもが苦しんでいる時。このままだと失敗するだろうと思う時。間違えた道を選択している時。
愛しているが故、「こうした方がいいよ」「このままだと失敗するよ」と言うのです。
これは親の愛です。
しかし子どもは・・「うるさいな!」と感じます。子どもは「いちいち指図する」「自分を信じていない」と感じるのです。
親は子どもより沢山の経験があります。良かれと思って、愛しているからこそ、良いと思うものを子どもに与えたくなり、口を挟みたくなるのです。
「与えたい愛」と「受け取りたい愛」に差があるので、上手く伝わらないし、上手く受け取れないのです。
夫婦も同じです。
妻が今ある状況、ストレス、問題を話します。聞いて欲しいのです。受け止めて苦しい気持ちに寄り添って欲しいのです。
しかし、多くの場合(私を含む・・)「こうしたら?」「そんなこと気にしなくていいよ」「あなたの言い方が・・もっとこう言えば良かったのに・・」と言ってしまいます。
妻が苦しんでいるから、早くそこから助けたい思いでアドバイスするのです。これは妻の話を聞いた夫が持っている愛情です。
しかし、妻にとっては、単に聞いて欲しいだけ。気持ちに寄り添って欲しいだけなのに、責められた思いになり、一層ストレスを受けたりするのです。
そして夫に文句を言うのです。夫は「何?!あなたを思い、良かれと思って言ってあげてるのに・・!」と、互いに気分が悪くなるのです。
親しい友人の間でも同じことが起こります。
上手く愛せない。自分には愛情がない。のではなく、相手が求めているもの形にあっていないだけ・・・かもしれません。
私の夫も、私が望まない愛情をよくくれます💦
私も形が合わない愛情を、夫や子ども、友達にあげていると思います💦
人を愛するのも・・まず祈ってから!ですね。
「自分の愛ではなく、主ならどの様に愛するのか教えて下さい」と常に祈る必要があるんだと思います。
”W.W.J.D.”です。
”What would Jesus do?”「主イエスなら、どうされるか」
人を愛する前にも主に祈ってから・・
今日も主にあって、隣人を愛せる日となりますように!