何事も心配しないで、どんな時でも神に祈りなさい。そして、祈りに答えてくださる神に感謝しましょう。
そうすれば、人間の理解をはるかに超えた、すばらしい神の平安を経験します。キリスト・イエスにあって、その平安はあなたがたの心と思いを静め、安らかにしてくれるのです。
ピリピ4:6-7(リビングバイブル訳)
凄く心配事が尽きない友達がいます。
ラインでも通話でも、心配事を話しだすと毎回2時間ぐらい続きます。
聞いていて思う事は、心配事は仮定をもとに悩まされているのです。
「もし、〇〇になったらどうしよう」
「このままだと、どうしていいか分からない」
話を聞きながら「こんなに仮定をもとに心が奪われて、苦しいだろうな💦」と思うのですが、本人曰く「これでも押さえて話している」と言うのです。
本当はもっと「どうしよう」「どうしよう」と終始、考えているそうです。
確かに、すごく的を外して心配している訳ではなく、起こる可能性がある心配事をしています。
しかし、まだ起こってもない事に心を奪われ、一日中それらが頭から離れないのです。
起こってもない未来に、今生きている時間を費やし、心が奪われているのです。
先日も、2時間話をしました。
話を聞き終わると、私の心も疲れています(笑) 一度祈ってから出ないと、次に切り替えれない状態になります。
祈っている時に思い出した事があります。
以前、里親活動をしていました。里子とは養子と違い、実親が親権をもっていますが、自分で育てられない状況下の子どもです。
長期の里子、2児の出産の為など一時的な里子、週末里子などがいます。
長期の里子は、未婚の片親の場合が多いです。
一次的な里子も何度も預かったのですが、長期の里子は2人預かった事があります。
2人目のB君を思い出しました。
B君は、児童保護施設に預けられており2歳の時に里子となり我が家に来ました。
うちの次男より二つ下です。
凄く小さい可愛い男の子。
すっごく沢山食べます。月齢の平均よりかなり小さいのに、大人以上に食べるのです。
保育園に行っていたのですが、給食はおかわりに拘り、ハイスピードで食べ、何度もおかわりをGETしていました。
毎日、2.5人分食べていたのです。(本当はもっと食べたいけれどおかわりがない)
夕方、お迎えに行くとB君は決まって私に言う事があります。
「今日、ご飯ある?」と言うのが第一声です。
「今日のご飯なに?」と聞くなら分かりますが、毎日、すごく心配した顔つきで「今日、ご飯ある?」と聞くのです。
しかも、お迎えの時に私の顔を見つけると慌てて急いで近寄り、大きい声で心配そうに聞くのです。
私は、ちょっと恥ずかしい・・と思っていました。他の保護者にも保育園の先生の耳にも聞こえています。
先生たちは、B君の事情が分かっているので良いのですが、他の保護者は私が里親だとは分かっていません。実親だと思っています。
毎回、抱いて「もちろんあるよ!いっぱいある!今日は、〇〇だよ。おかわりも一杯あるからね!」と言います。
すると安心して遊んでいたものを片付け、ご飯が気になり早く帰ろうとします。
皆でご飯を食べる時、大皿におかずを置いていました。そして自分が食べたい分だけ小皿にとって食べていました。
ある日、B君は「みんな食べたらダメーーー!返して!全部僕のもの!!」と大皿を抱え込み、少しパニックになった事がありました。
目の前の大皿のおかずに、夫、私、長男次男の手が伸び、大皿のおかずが減っていくのを見れなかったようです。
それ以降、ワンプレート式にしました。
そして毎回、私はコソッとBくんに「お兄ちゃんには秘密(笑)」と小さい声で言い、私のプレートからおかずを1つあげるようにしました。
長男次男は、Bくんの状況を理解しており、気付かないふりをしてくれていました。
時々、長男とB君の目が合うと「B君~知ってるよ~(笑) 毎回お母さんからおかずもらってるの!いいな~!(笑)」とサクラのような演出までしてくれていました。
これを繰り返し3年ほどで徐々に、ご飯の心配から解放されていきました。
大人の私は、
「それは心配しなくて大丈夫。私が絶対に確保する事だから。あなたの心配ではない。どちらかと言えば、親である私の心配」
と思っていました。
私たちの心配事も、主から見たらB君のようなのかもしれません。
起こってもない事、未来なんて分からないのに、先手を打とうとして心配するのです。
今までの経験をもとに、あれやこれやと想像を膨らまし、先に対処しようとするのです。
B君が目の前の大皿のおかずが減っていくのを見れないように、私たちも目の前の状況が少し傾いていくのが耐えれないのです。
もし大皿のおかずがなくなり、それでもまだ空腹を覚えるなら、私は何か他のものを作るなりレンチンするなり、何かを出し満足させるはずです。
主も同じです。目の前の状況が傾いて行ったとしても、傾こうがどういう状況であろうが、そこからどうにでも出来るのです。
B君が大皿が減って無くなったとしても、私が必ず満足させてくれるという信頼があればパニックにはならなかったと思います。
私たちの大皿も同じです。減っていっても無くなったとしても、必ず主は与えてくれるのです。
問題は、信じれるかどうかです。
目の前の大皿のおかずが無くなるかどうかが問題ではなく、信頼できるかどうかが問題なのです。
長男と次男は「今日、家にご飯があるか」と心配したことはないと思います。当たり前に私が準備をすると信じているからです。
本当に主に信頼するって、長男次男のような状態を指すのかもしれません。
子どもが今日のご飯を心配しないように、主を信頼出来れば素晴らしいなあ~と考えながら・・
今日の御言葉を思い出しました。
「何事も心配しないで・・」とあります。
「何においても」・・心配しないで!と言われているのです。
「それはあなたが心配することではない。心配したところで何も出来ないのだから!」と言われている様に感じました。
今日も、心配を手放し、主を信頼することを選ぶ一日となりますように!