主に絶対的な信頼を持つ為に【Ⅰ列王記17:12-13】

2023年

彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

Ⅰ列王記17:12-13

神さまが今も生きておられ、絶対的な信頼・・・

持ちたいですよね。

「主は今も生きておられる」と言う話は教会で何度も聞いた事があると思います。

単に聞いた話ではなく、自分の事として受け止める事が出来たら、自分の信仰が堅固なものになり心強くなると思いませんか。

主に絶対的な信頼を持つにはどのようにしたら良いのでしょうか。

試練の中でしか、主への信頼は学べないのです。

人はそれぞれ試練を経験します。

しかし、残念な事に主は試練を通し祝福を与えようとされているのに、「祝福」は受け取らず「試練」だけ受け取ってしまう人も多いのです💦

人生に試練が訪れ、心が痛み、もがき、苦しみを感じます。

そして祈ります。「主よ。苦しいです。試練が私を襲ってきます。今すぐ助けて下さい。〇〇となるように導いて下さい!(良い結果に解決されるように)」

そして、試練が過ぎ去るのをひたすら祈り、主の助けを待ち、耐え続けるのです。

そして時間の経過と共に、どのような結果にしろ、やがて試練は過ぎ去ります。

願っていた良い結果で試練が終われば、「主よ。感謝します!!」と私たちの口から主に感謝の言葉がでます。

しかし、願っていない最悪な結果となれば、信仰が揺らぐのです。「祈ったのに・・」と。

同じように試練を潜り抜けて、主の御力を体験できる人と不信仰となってしまう人がいるのです。

 

試練に遭った時、どの様すれば良いのでしょうか。

私たちは自分の人生に苦しく良くない事が起こると、悪からの攻撃のように感じてしまいます。

本当に悪からの攻撃かもしれません。

しかし、主が良しとされたので自分の身に降りかかっているのです。

主は全てを善に変えられることが出来るお方です。

悪の攻撃であるにしろ、主が与えられる苦難にしろ・・主が良しとされたのです。

主はそれらの出来事を通して、善を、「祝福」を与えたいのです。

私たちは窮地に追い込まれると、苦しみからの解放を望み、苦しみが過ぎ去るように祈ります。

そして自分が想像できる一番良い結果に事が済むように祈っています。

祈りながら、主に依り頼むと言いながら、「・・となりますように」「・・与えて下さい」と、「祈りのゴール」「祈りの結末」を指定して祈ってしまっているのです。

結果を自分で決め、指定して、それに答えられないと「祈ったのに・・」と感じてしまっているのです。

私は祈りを聞いてもらえない・・と一人悲しくなってしまうのです。

どの様に祈るべきなのでしょうか。

良くない事が生じた時、まず「それが過ぎ去るように」「苦しい思いからの解放」を祈りたい所ですが・・

「主よ。感謝します。主がこの困難を通して、私に与えようとしてる祝福を受け取りたいです」と祈って下さい。

主の祝福を受け取る為に、

「苦しみが過ぎ去る事」「結果の指定」は主に委ねるのです。

「この困難を通して、主が私に何を教えたいのか。何を語ろうとしてるのか」だけを望むのです。

これが、本当に主に委ねる姿勢です。

絶対的に主に委ね、主が今も生きておられ働かれる事を切に望むのです。

「主よ。語って下さい」と祈るのです。

絶対的な信頼は、苦難の中でしか学べません。しかし、耐えるだけの苦難では、主への信頼は学べないのです。

 

Ⅱ列王記の預言者エリヤの養った「やもめ」の話。

主は多くを持つ豊かな者ではなく、一握りの小麦と少しの油しか持ち合わせていない、力のないやもめを選ばれました。

やもめには、最後の一食しか持っていなかったのです。

主はそこに目を留められました。

そして、最後の一食を捧げるように言われたのです。

主は心を見られる方です。

主は多くを持つ者、捧げても何の痛みも犠牲も感じない者の捧げものではなく、

限界にいる者、それしか持っていない者の捧げもの。

つまり、全てを捧げる心を望まれているのです。

やもめは、最後の大切な一食をエリヤに捧げました。

そして祝福を得たのです。

平穏無事な生活、満たされ不自由がない生活の中で、主の信頼は学べないのです。

試練の中でしか、主の信頼は学べないのです。

沢山ある中からの捧げものではなく、一番大切な捧げものなのです。

忙しい毎日の中で、大切な時間を捧げる事も、主が喜ばれる事です。

主は、主を第一にして欲しいのです。

自分にとって大事なものをしっかり手に握りしめ「これ以外は主の好きにして下さい」という心は喜ばれないのです。

自分にとって一番大切なもの。

手放したくないもの。

自分の手にしっかり握りしめているもの。

握りしめた自分の手を開き、一番大切にしているものを委ねる事を望まれています。

人生に起こる試練や、大事なものを手放すという事は、主に出会い主を体験するチャンスです。

せっかく主が語ろうとされ、祝福を与えようとされているのに、祝福を受け取らず苦しみだけを耐えて過ごすのは、凄く残念です。

思い切って、今感じる苦しみからの解放、問題からの解放、痛みからの解放などは主に委ね、

「それらより、主よ語って下さい!」と祈れる者になりたいです。

今日は、自分の手でしっかり握りしめているものは何か考えたいです。

今日も、主の中で主の語りかけに心を寄せて過ごせますように。

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