そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
Ⅰコリント15:17-19
今日は、復活祭(イースター)です。
イエスさまが十字架で処刑され3日目に蘇られました。今日がその復活の日なのです。
イエスさまは私たち人間の罪の為に、
人間が罪によって裁かれない為に、
人間の罪を許す為に・・
神の子イエスさまが、私たちの罪の為の「いけにえ」となり、十字架に架かって死なれたのです。
私たちの罪の身代わりとなって亡くなられたのです。
ですから、私たちは、「イエスキリスト(主)が神である」「私の罪の為に十字架に架かって死んで下さった」と信じるだけで、罪を許るすと言われたのです。
では、どうして復活されたのでしょうか。
十字架の意味は知っていても、復活に対してはふわっとしか意味が分からない方が多いです。
キリストの復活に、意味はあるのでしょうか。
十字架の復活には大きく2つの意味があると思います。
一つ目は、他者の偉人や聖人、神と呼ばれる者との違いです。偉人、聖人、神と呼ばれた人々は、時代は違っても死にました。しかし復活した者はいません。
イエスキリストのみ復活され、今も生きている神のです。
これが、他の者との大きな違いであり、唯一の神の子であるという証拠でもあります。
二つ目は、もしキリストの復活がなければ、私たちの永遠の命もないのです。
永遠の命がないのであれば、私達も死んだら終わりなのです。
「復活」は、キリスト教の根幹です。
復活は福音の確信であり、信仰の基盤となるものです。
復活がなければ、キリスト教に希望はないのです。
イエスさまが復活しなければ、イエスさまも他の偉人や聖人のように「死」に勝てなかったという事になるのです。
死んで終わるのであれば、終わりを見る瞬間まで、自分のしたいように自由に生きればいいのです。
正しく生きようとする意味がないのです。
私達が信じるキリストは、死から復活された方。「死」に打ち勝った方なのです。
イエスさまが復活され、「もう一度この世に来る」と「再臨」を約束されました。
死者も復活し、主を信じる者は永遠にキリストと共に生きるのです。
先に死んだ者との再会という希望があるのです。
イエスさまの「復活」は私たちの希望であり、キリスト教の根幹です。
「復活」はとても重要なのです。
「復活」がなければ、私たちの信仰には、希望がなく虚しいものになるのです。
私たちの人生で起こる問題は、「罪」から始まったのです。アダムとエバが罪を犯しエデンの園を出てから、沢山の事が狂い始めたのです。
まず「死」が人生に入って来たのです。
そして、病や、人間関係、経済的な問題など、様々な問題が人生に生じるようになりました。
私達が経験する問題の殆どの根っこの部分は「死」への不安なのです。
病になって不安になるのは、その不安の先に「死んだらどうしよう」という思いがあるからです。
希望する進学や就職が出来ない → 将来への不安 → 精神的に満たされない人生 → つまらない人生 → 生きる事に否定的になるのです。
経済的問題 → 生活出来なくなるという不安 → 食べていけなくなる → 死への不安
人間関係の不和 → 孤独になる → 寂しい人生 → 生きる力を奪う
一方的に傷付けられる → 生きる力を奪う
生きる事に否定的になったり、生きる力を奪うという事は、「生」より「死」に意識や思考が傾くのです。
例え、社会的成功者のような問題が無いような人生であったとしても、お金や名声があっても「死」への不安は拭い切れないのです。
「罪」から始まった、「死」の問題。
これが私たち人間にとって最大の問題なのです。
イエスさまの十字架を通して、この最大の問題、
人間の力では誰一人解決できない問題を、イエスさまの十字架によって解決されたのです。
「罪の赦し」と「死んでも生きる」という約束をされたのです。
「復活」こそが、キリスト教の希望なのです。
今日は、イエスキリストが復活された事を記念する日です。
主に感謝する日です。
私たちに希望を下さった主。
人間が持つ最大の問題を、もう既に解決して下さっているのです。
十字架の意味は知っていても、復活の意味がふわっとした認識なのは、
多分、キリスト教のシンボルが十字架であり、復活に関するものがシンボルとなっていないからかもしれません。
今日は、主に感謝を捧げる一日をお過ごしください!!