自分に与えられた十字架を背負うという事【マタイ16:24】

2023年

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

マタイ16:24

昨日は、韓国の友達と会いました。凄く久しぶりです。

韓国の友達で一番、心を許せる人で、私が韓国に留学して直ぐに教会で出会いました。

彼女は韓国の大学で日本語を学んでおり、当時、韓国語が殆ど出来ない私に日本語で色々と教えてくれる有難い友達でした。

今は、我が家の長男を助けてくれています。

韓国で生活する上で、長男にとって母親のように・・

久しぶりに会って、楽しい会話は途切れることなく続きました。

その中で彼女が「神さま、早く来て欲しいよね!」と何気なく言いました。

「(笑)そうだよね~」と答え・・

何となく心に引っ掛かりを感じました。

何だろう・・どうして心に引っ掛かりを感じるんだろう。

日本に居るクリスチャンの友達も、時々口にするセリフです。

「早くイエスさま、来て欲しいよね」

「携挙して欲しい・・」と節に願う友達もいます。

彼女と別れてから、私と夫、次男は韓国で有名な賛美チームが率いる賛美礼拝に行きました。

次男はいつもYouTubeでこのチームの賛美をよく聞いており、是非是非行ってみたいと・・

2時間半、賛美を捧げ続け、また祈るのです。

その間にどうして自分の心に引っ掛かりを感じるのか祈り求めました。

自分の頭の中に、イエスさまが十字架を背負っている姿が思い浮かびました。

昨日のブログに書いたように、イエスさまが鞭打たれ、何度も倒れながらも十字架を背負って歩く姿。

周りには多くの群衆がおり、イエスさまを罵倒しているのです。

そしてイエスさまのその痛々しい傷だらけになっている姿を、息を飲んで心を痛めながら黙って見ている弟子たちも群衆に紛れているのです。

頭に浮かんだその情景・・

その中に、息を飲んで黙ってイエスさまを見つめ涙している私の姿もありました。

「早くイエスさま、来て欲しい」と言う言葉。

このセリフが私たちの口から出てくる時って、生きる事が辛いと感じる時です。

人生で良い事もあるけれど、良い事と良くない事を天秤にかけると、多くの人は良くない事の方に傾いたり、安定感なく左右に揺れ動いたり・・

生きていく事が辛いのです。

だから、早くイエスさまに来て頂いて、神の国に行きたいのです。

もう色々な事に心奪われず、イエスさまだけを見つめ賛美を捧げながら過ごせたら、どれ程いいだろうか・・

という思いが頭を過ぎる時、私たちはその様なセリフが口から出るように思います。

私たちは生きながら、色々な苦しい局面を過ごします。

そしてその難しさ、苦しさを感じるごとに祈ります。

「神さま、この問題を早く解決してください!」

「早く助けて下さい!」と節に願うのです。

昨日のブログにも少し書いたように、この様に心が平常心を離れ動いた時(悲しい・苦しい・嬉しい・・)

このような時は主からの語りかけです。

主が私に何かを教えたいのです。

しかし、私たちは主のその教えたい内容に心を配らず、「自分の苦しさからの解放」ばかりを望んでしまいます。

主は本当は、語りかけに心を向けて欲しいのです。

今感じる苦しさを通して、主を知って欲しいのです。

今感じる苦しさ・・・主が私に与えられた十字架なのです。

「その十字架からの解放」をひたすら望むのではなく、自分に与えられた十字架を取り除くことを求めるのではなく、

主と共にその十字架を背負う事、主と共に歩む時間を過ごし、主を知る事を望まれているのです。

しかし、私は自分が感じる苦しさからの解放だけを望み、主が切に望んでいる「主を知って欲しい」「主の語りかけに心を留めて欲しい」ということをスルーしてしまうのです。

私は自分が黙って、傷だらけのイエスさま、血を流し見るに堪えない姿をされているイエスさまが担がれている十字架。

それが通り過ぎるのを黙って泣きながら見つめているのです。

十字架が自分の前から通り過ぎるのを・・

辛く苦しい十字架が通り過ぎるのだけを待っているのです。

私たちがこの世で感じる艱難や問題・・・多くのものは時間の経過と共に、結果が良くても悪くても過ぎ去ります。

私は、時間と共に早く過ぎ去る事だけを望んでいるのです。

しかも、時間と共に痛みがなくなり自分の状況が良くなるようにと祈りながら・・・

自分が負わないといけない十字架を背負わず、良い方向に過ぎ去るのをひたすら待っているだけなのです。

私も弟子と同じように・・

特に苦しみを感じない日常の中で過ごす時、私は主と人生を共にすることを望み、弟子たちが何処までも、死までも主と共にいる・・というような信仰告白をしました。

しかし、実際に自分に十字架が与えられた時、黙ってその十字架が通り過ぎるのを待ってしまうのです。

そして「主よ。どうかこの苦しさ、問題を解決してください」と、

自分に十字架を渡さないように願うのです・・

私は本当に弱い人間・・ペテロのようです。

自分に十字架が与えられた時、その問題からの解放を願うのではなく、主が与えようとしている、主がどういったお方なのか知ることを望む、しもべとなりたい・・・

今日も主に悔い改め祈る時間を沢山持ちたいです。

今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!!

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