モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」
彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。
彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。
出エジプト16:19-21
自分が身を置いている場所・・・
職場、学校、コミュニティー、教会、仲良しグループ・・それらの場所の居心地は良いでしょうか?
特に職場や学校、もしくは家庭などは、一日の内多くの時間をその場所の中で過ごす事になります。
自分の人生で多くの時間を過ごす場所が、恵まれた良い環境であって欲しい・・と誰もが願うと思います。
しかし実際、問題も多くストレスも多いと思います。
それが、自分が望み好きな仕事であっても、行きたいと切に願った学校であっても、大好きな人と結婚したとしても・・・
何かしらのトラブルが付きまとい、時には心底嫌気がさす事もあるのです。
物事が上手くいかない事が続くと、全てが嫌になり、生きている事に疲れたりもするのです。
凄く望んだ環境を手に入れても、嫌になったり、無意味に感じる事があるのです。
全ての人が、ストレスフリーの環境を望んでいるのに・・
全ての人が、ストレスを受けて生きているのです。
何故でしょうか。
私たち人間が集まると、それぞれの欲が刺激されるのです。
そのコミュニティーの中で、自分が優位に立とうとしてしまうのです。
人と比べてしまうのです。
そして競争心が芽生え、勝った負けたという思いが生じるのです。
そしてそのコミュニティーの中で、優位に立つという事が自然と「自分の存在価値」となってしまうのです。
優位に立つことが出来れば、暗黙の了解で人は自分に一目置くのです。
しかし、その争いから落ちてしまうと、敗北者となり、軽くあしらわれてしまうのです。
これは無意識レベルでも起きてしまいます。
人が集まると、私たちの内にある罪が刺激され、私たちをあおるのです。
あおられた私たちは、良い環境で生きたいと願いながらも、平和を乱す言動をじわじわと行ってしまうのです。
私たちの内にある罪が刺激を受けないように、あおられない為には、どうすればいいのでしょうか。
私たちの視点を変える必要があります。
私たちは人が集まるとその中での成功や生きがい、承認欲求が生まれるのです。
そこに私たちの視線が集中し、そこに価値を置き、そこで成功しようと心が動いてしまうのです。
しかし、私たちはコミュニティーを離れ一人で生きていく事はできません。
そのコミュニティーの中に身を置きながら、自分の視点を変える必要があるのです。
自分の存在価値を、人間の集まりであるコミュニティーの中に置くのではなく、主による存在価値を持つべきなのです。
これは・・毎日主と交わりの時間を持つ・・という事以外方法がない様に思います。
イスラエルの民は、エジプトの支配から解放され、約束の地に向かいました。
思ってもない、想像も出来なかった奴隷生活からの解放を得たのです。
しかし、人間は奴隷生活であっても、自由に解放された身になっても、どの様な環境に置かれても不平不満が絶えないのです。
奴隷生活から解放されれば、心を合わせ一致団結して、約束の地へ向かえそうに思いますが、欲が刺激され平和を乱す発言をする人が出てくるのです。
主はそのようなイスラエルの民をご覧になり、どうされたでしょうか。
主はイスラエルの民に、40年間マナを与えられました。
マナは、朝毎にあたえられ、一人一人がその日に自分の食べる分だけを集めさせました。
日が熱くなるとマナは溶けたと書いてあります。
ですから、日が熱くなる前、朝早くに集めさせたのです。
主は、イスラエルの民が、毎朝、早くに主の前に出て、その日の恵みを受け取ることを学ばせたのです。
マナの奇跡は、私たちが主だけを仰ぎ見てより頼む時、私たちの人生に主の恵みが途切れる事がないという”しるし”なのです。
私たちが住むこの世は、エデンの園ではなく、罪が覆う荒野なのです。
日々のマナが必要なのです。
数日前に集めたマナではダメなのです。
朝早くその日の分のマナを頂き、主の恵みを持って自分の欲が刺激されないように、
自分の視線、自分の存在価値を置く対象を間違わないようにする必要があるのです。
全ての人類が平和な世界を望んでいるのに・・
人間が持つ欲が刺激され続ければ、戦争や争いを引き起こってしまうのです。
今日も、主の御前に進み出て、今日一日に必要なマナを頂きましょう!