しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
使徒の働き1:8
久しぶりの友達から電話がありました。
昔、一緒にベトナムに短期宣教に行った時の友達です。
久しぶりに交わりの時間を持ち、電話を切ってから短期宣教を思い出していました。
そして、現地の宣教師先生との1つの会話を思い出しました。
ベトナムのハノイからホーチミンへ車で向かう途中、どこか少し田舎で食事休憩をしました。
そして再び車で移動しようと、皆で車に乗り忘れ物がないかチェックしている時に、
車の周りに小さな幼児や小学生位の子どもが沢山集まって来て、車が出発できなくなりました。
食べ物やお金が欲しいのです。
手を差し伸べ、しきりに訴えています。大声で叫んでいます。
見ると、小学校高学年ぐらいの女の子が赤ちゃんをおんぶしています。また、子どもが子どもを抱っこして面倒をみている子どももいます。
そして、車から少し離れた所で、バク転を何度も繰り返している小さな子どももいました。
「芸」を見せているのです。お金が欲しいのです。
私たちは驚きためらい、その子どもたちを直視出来なくなっていました。
すると、現地の宣教師先生が外に出て子どもたちに何かを話し、子どもたちは車から離れて行きました。
そして車の中にいたチームの皆は、この子どもたちの姿に心を痛めた瞬間でした。
同じチームの女の子は「家にある物を売って、あの子どもたちにあげたい・・」と泣いていました。
多分、豊かではない国に行った事があり、あのような状態を経験した事がある人は、同じように思うと思います。
そして、宣教師先生が車に戻って来て話された言葉があります。
「このような子どもたちの姿を見て、今心を痛めていると思います。
誰もがこの様な光景を目にして、自分の物をあげたい。分けたい。と感じるでしょう。
でも絶対にお金を上げたらダメなのです。お金を与えたら、この子どもたちはずっと物乞いをすることになります。大人になっても。
それと、もう1つ。今感じているそのような思いをもって宣教師になってはダメです。」と言われました。
今感じている憐れみの心をもって、宣教師になったらダメ・・
始めは「え・・そうなの?」と思いました。
どうしてダメなのか、考えて見なさいと言われ。
「可哀相だと思うのは、人間的な思いだから?」というのが、自分の中にある限界の答え・・それ以上分かりませんでした。
「助けたい。何かをしてあげたい。それだけではダメなのです。それ以上のものが宣教師には必要です。
宣教師とは、福音を伝える者とは・・・自分が主を経験し感動し、心が揺さぶられ、心から湧き上がる熱いもの・・・これを伝えたい!!という思いが必要なのです。
単に可哀相だから・・ではダメなのです。”福音を伝えたい!”を超えて、”伝えずにはいられない・・!”という思いが必要。」だと言われていました。
これは、主に出会い、キリスト者とされ、主を体験し、主を知っていく・・・今日の御言葉のとおり、
聖霊があなたがたの上に臨まれる時・・その心は可能となるのです。
「福音を伝えたい」と言う思いを超え「伝えずにはいられない」思いで突き動かされないといけないと言われていました。
その時に先生が話された言葉を思い出いだし・・・
今、私が信仰を持てているのは、
聖霊に満たされ「福音を伝えずにはいられない」という思いを持った多くの人を介して
今の時代まで福音は言い伝えられてきたんだな・・・。
私が今、信仰を持てているのも、そのような「伝えずにはいられない」という信仰者が居たから、2000年経った今でも福音が消え去らず、伝えられている・・
パウロは牢獄で死が近寄ってくる時でさえ、信仰に確信を持ち手紙を通して主を伝えたのです。
パウロは牢獄に身を置きながら、死を感じながらも、より一層、揺れ動かない信仰の強さ、溢れ出る主への信仰を感じます。
私に今、このような「伝えずにはいられない」という信仰があるだろうか。
宣教師や牧師のような献身者にならなくても・・
私たち一人一人が聖霊に満たされ、「伝えずにはいられない」と言う思いを持った者とされれば・・・
日本はもっと変わるかもしれない・・
世界も変わるかもしれない・・
私の信仰は、私だけを満足させるだけのものであってはいけない・・
自分だけが、自分の大切な人だけが、満たされるだけではいけない・・・
主の福音、主の祝福・・・これらを隣人に世の中に、流す人にならないといけない。
私たちキリスト者を通して、主は福音や祝福を流れる事を望まれているのに。
私は自分の所で、主の祝福を止めてしまっているのではないか・・と思いました。
聖霊に満たされ「福音を伝えずにはいられない」者となりたいです。
今日は、自分が主の祝福を止めてしまっていることについて祈りの時間を持ちたいです。
今日も、主と共に歩み、主の祝福を流す一日となりますように。