幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。
主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。
主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。
私は言った。「主よ。あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」
詩篇41:1-4
詩篇の多くの部分は、ダビデによって書かれたと言われています。
イスラエルの初代の王はサウルです。神に愛され立派な王でしたが、高慢になってしまいました。
ダビデはゴリアテに勝利し、戦士の長となり、ダビデはどの戦いにも勝利を治めました。
ダビデの人気に嫉妬をしたサウル王。ダビデを殺そうとします。
こうしてダビデの逃亡生活が始まるのです。
ダビデは(この時点では)主を恐れる正しい者でした。
なのにも拘らず、逃亡生活は10年以上続いたと言われています。
逃亡し続ける生活の中でも、ダビデは主に対して正しい心と行動を保ちました。
逃亡する前も、逃亡してからも、ダビデは主の前で正しかったのです。
にも拘らず、逃亡生活を強いられていたのです。
理不尽な人生だと思いませんか。
私であれば、「主よどうしてでしょうか」「私に何か非があるのであれば、教えて下さい」と主を責めたり、文句を口にすると思います。
この逃亡生活での思いが詩篇に沢山記されています。
詩篇の「ダビデの賛歌」を読んでいて、気が付いたことがあります。
ダビデは主に祈る時、何度も使っている言葉があります。
「主よ。私を憐れんでください」
新約聖書にも、「主よ。私を憐れんでください」という言葉を見る事ができます。
【盲人のバルテマイ】
テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私を憐れんでください」と叫び始めた。(マルコ10:46-47)
【十人のツァラアトに冒された人】
声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞ憐れんでください」と言った。(ルカ10:23)
【祈る為に宮に上った(パリサイ人と)取税人】
目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私を憐れんでください。』(ルカ18:13)
この3つは、「私を憐れんでください」という言葉が出るのは、何となく理解ができます。
上の2つは、人間が癒す事が出来ない病を持っていたのです。
自分で働く事が出来ず自分の力で食べていけないのです。人々の憐れみにすがって生きて行くしかなかった状態です。
3つ目の取税人とは、当時ユダヤを支配していたローマの為に、同胞から税を取り立てる仕事であり、定められた額より多く取り立てていたようで、ユダヤ人からは憎まれ「罪人」と見下されていたのです。
3つとも、社会的に弱い立場であり、孤独を感じている状態だったと思います。
憐れみなしに生きて行けない状態だったのです。
「主よ。私を憐れんでください」と祈りたくなるのが分かります。
「主よ。私を憐れんでください」という言葉・・
本当に自分が社会の底辺に追いやられ、家もなく友も居ない孤独な状態・・・の様に感じます。
自分には何もない。
自分は何も持っていない。
自分が無力である。
自分の力で生きていく事が不可能である。
この様に心底、自分はゼロであり、何一つ自分では出来ることがない・・と思わないと出てこない言葉ではないかと思いました。
私は今まで「主よ。私を憐れんでください」とあまり祈りませんでした。
憐れみがないと生きて行けない・・・とまで考えていなかったからです。
上の3つは、イエスさまがその「主よ。憐れんでください」という言葉に立ち止まり、祈りを聴いて下さっています。
私たちが信じる主は、憐れみ深い神さまなのです。
韓国では祈りの中で「主よ。私を憐れんでください!!」と本当によく使う言葉です。何度も聞きました。
今日、詩篇のダビデの賛歌を読みながら・・
私は凄く祈りが高慢だったな・・💦
もっと身を低く祈るべきであったのに、高い所から祈っていたように感じました。
主の憐れみなしに、生きていく事も何もすることが出来ない存在なのに・・
今日からは、、「主よ。私を憐れんでください!!」と祈ろうと思いました。
今日も、主と共に歩む1日をお過ごしください!