私たちに与えられた武器【出エジプト32:11-14】

2023年

しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。

また、どうしてエジプト人が、『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる』と仰せられたのです。」

すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。

出エジプト32:11-14

私は最近、「祈り」について考えさせられていました。

特に「とりなしの祈り」について。

何か問題に苛まれた時、私たちは「祈るしかない・・」と言います。

自分でどうする事も出来ない・・祈る事しか方法がない・・

これは、祈りに対して積極的な意味合いを持つというより、どちらかと言えば、ありとあらゆる方法を考えたけれど、解決方法がないので・・

後は「もう祈るしかない」のです。(どちらかと言えば、神頼み的な)

本来は、もっと積極的な意味を持つべき祈りなのに・・どこか祈りを軽く見てしまっています。

そして祈りとは、何となく「祈り」=「お願い事」というイメージを持ってしまっている様に思います。

自分の願いを聞いてもらいたくて祈る・・という考えが少なからずあるように思います。

「神さま、〇〇に合格したいです」

「神さま、健康を与えて下さい」

「神さま、この問題を早く解決してください」

本来のお祈りの意味は、2023.2.8のブログ「どうして祈る必要があるのか」に書きました。

どうして祈る必要があるのか【マタイ6:8b】
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。 マタイ6:8b 私たちが願う前に、主は私に何が必要かご存知である・・・ 有名な御言葉です。沢山の人がこの御言葉を引用します。 うちの次男も...

主は私たちが祈る前から私たちに何が必要かご存知である。

主は私たちの事を知っているが、私たちが主の事を知らないから、人は祈る必要がある・・・

お祈りとは、この様に、自分の願いを叶える為に主を説得する手段・・ではなく。

沢山の祈りを捧げるという努力する姿や、自分の願いの必要性を訴え、主の心を動かそうとするものではないのです。(百度参り的な)

しかし、聖書を見ると、主を説得している箇所もあります。

今日の聖書の箇所です。

モーセがイスラエルの民をエジプトから連れ出し、約束のカナンの地を目指していました。

道中、民は数々の文句を言います。その度にモーセは祈り、主が与えて下さいました。

そしてエジプトを出て3カ月後、モーセは一人で神さまの声を聞くためにシナイ山に上りました。

そこで「十戒」を授かるのです。

イスラエルの民は、モーセから聞いた神さまからの「十戒」を守ると誓っておきながら、モーセが十戒の石板を取りに再びシナイ山に登っている間に、

民は神さまとの約束を破るのです。モーセが居ない事を不安に思い「金の雄牛の像」を作り拝み始めました。

そして民は「この像が、私たちをエジプトから連れ上った」と言い出したのです。

主は民の姿を見て「うなじの怖い民」だと言いました。

「うなじの怖い民」とは、「強情」「頑固」「手に負えない」様子を表わし、「心をかたくなにする」民の姿を表しています。

主はそのような民を見て、モーセに「イスラエルの民を滅ぼす」と言われました。

それに対するモーセの返答が今日の御言葉です。

モーセもイスラエルの民に対して、苛立ちや腹立たしさがあったと思います。

しかし、民に対して主に憐れみを請うのです。

「主は、偉大な力と力強い御手をもって、エジプトから救出した自分の民に向かって、どうして、御怒りを燃やされるのですか。

主が民を滅ぼせば、エジプト人は何というでしょうか。『神は彼らを山地で殺し滅ぼす為、悪意をもって彼らを連れ出した』

どうか、燃える怒りを治め、思い直してください。」

モーセは主にとりなしたのです。懇願したのです。

もしかしたら・・・主はモーセの心にある民の怒りを治める為、モーセの心をご覧になる為にこの様に言われたのかもしれません。(分かりません)

どちらにしろ、主が言われた言葉に対して、モーセは懇願する様なとりなしをし、主の思いを変えたのです。

聖書には他にもこのような場面があります。

ソドムとゴモラを滅ぼそうとする主に対して、アブラハムもモーセの様にとりなしました。

「その地に正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすのですか? 正しい者が50人いたら・・45‥40‥10人‥」と必死に説得しました。

この様にモーセやアブラハムのとりなしの姿から、

誰か一人でも、その命の為に祈る人がいるなら・・主はその祈りの為に働かれるという事です。

祈りには力があり、祈りは主が私たちに与えられた武器なのです。

祈りによって、主の心を動かし、働いてもらう事ができるのです。

「世界で最強の武器」・・・を私たちクリスチャンに与えられているのです。

武器とは・・戦う為に存在するものです。

私たちは最強の武器を持って、信仰の敵である悪と戦う必要があるのです。

今日も、主が私に与えられた最強の武器を持って戦う時間を持ちたいです。

主が私の祈りに心を留め、働いて下さいますように・・

今日も、主によって勝利する一日をお過ごしください!

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