高い所から祈っている【詩篇41:1-4】

2023年

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。

主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。

主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。

私は言った。「主よ。あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」

詩篇41:1-4

詩篇の多くの部分は、ダビデによって書かれたと言われています。

イスラエルの初代の王はサウルです。神に愛され立派な王でしたが、高慢になってしまいました。

ダビデはゴリアテに勝利し、戦士の長となり、ダビデはどの戦いにも勝利を治めました。

ダビデの人気に嫉妬をしたサウル王。ダビデを殺そうとします。

こうしてダビデの逃亡生活が始まるのです。

ダビデは(この時点では)主を恐れる正しい者でした。

なのにも拘らず、逃亡生活は10年以上続いたと言われています。

逃亡し続ける生活の中でも、ダビデは主に対して正しい心と行動を保ちました。

逃亡する前も、逃亡してからも、ダビデは主の前で正しかったのです。

にも拘らず、逃亡生活を強いられていたのです。

理不尽な人生だと思いませんか。

私であれば、「主よどうしてでしょうか」「私に何か非があるのであれば、教えて下さい」と主を責めたり、文句を口にすると思います。

この逃亡生活での思いが詩篇に沢山記されています。

詩篇の「ダビデの賛歌」を読んでいて、気が付いたことがあります。

ダビデは主に祈る時、何度も使っている言葉があります。

「主よ。私を憐れんでください」

新約聖書にも、「主よ。私を憐れんでください」という言葉を見る事ができます。

【盲人のバルテマイ】

テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私を憐れんでください」と叫び始めた。(マルコ10:46-47)

【十人のツァラアトに冒された人】

声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞ憐れんでください」と言った。(ルカ10:23)

【祈る為に宮に上った(パリサイ人と)取税人】

目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私を憐れんでください。』(ルカ18:13)

この3つは、「私を憐れんでください」という言葉が出るのは、何となく理解ができます。

上の2つは、人間が癒す事が出来ない病を持っていたのです。

自分で働く事が出来ず自分の力で食べていけないのです。人々の憐れみにすがって生きて行くしかなかった状態です。

3つ目の取税人とは、当時ユダヤを支配していたローマの為に、同胞から税を取り立てる仕事であり、定められた額より多く取り立てていたようで、ユダヤ人からは憎まれ「罪人」と見下されていたのです。

3つとも、社会的に弱い立場であり、孤独を感じている状態だったと思います。

憐れみなしに生きて行けない状態だったのです。

「主よ。私を憐れんでください」と祈りたくなるのが分かります。

「主よ。私を憐れんでください」という言葉・・

本当に自分が社会の底辺に追いやられ、家もなく友も居ない孤独な状態・・・の様に感じます。

自分には何もない。

自分は何も持っていない。

自分が無力である。

自分の力で生きていく事が不可能である。

この様に心底、自分はゼロであり、何一つ自分では出来ることがない・・と思わないと出てこない言葉ではないかと思いました。

私は今まで「主よ。私を憐れんでください」とあまり祈りませんでした。

憐れみがないと生きて行けない・・・とまで考えていなかったからです。

上の3つは、イエスさまがその「主よ。憐れんでください」という言葉に立ち止まり、祈りを聴いて下さっています。

私たちが信じる主は、憐れみ深い神さまなのです。

韓国では祈りの中で「主よ。私を憐れんでください!!」と本当によく使う言葉です。何度も聞きました。

今日、詩篇のダビデの賛歌を読みながら・・

私は凄く祈りが高慢だったな・・💦

もっと身を低く祈るべきであったのに、高い所から祈っていたように感じました。

主の憐れみなしに、生きていく事も何もすることが出来ない存在なのに・・

今日からは、、「主よ。私を憐れんでください!!」と祈ろうと思いました。

今日も、主と共に歩む1日をお過ごしください!

タイトルとURLをコピーしました