ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。
コロサイ1:23
試練って嫌ですよね。
避けて通りたいものです。
どうして主は試練をお与えになるのでしょうか。
もしも、クリスチャンになれば試練がなくなる人生を歩めるのであれば、より多くの人が主を信じるだろうに・・とかって思いませんか?
過ちを犯して、試練を与えられるなら理解しやすいですが、
主は、私たちが過ちを犯したからと言って、試練を与える方ではないのです。
何故、試練が与えられるのでしょうか。
試練を与える目的は何でしょうか。
私たちは、どの様な時に試練を感じるでしょうか。
病気や失敗、罪を犯してしまった時、自分や家族に問題が生じた時。私たちは試練を感じます。
イソップ物語の「高慢なランプ」という話を知っていますか?
ランプがアルコールのしみ込んだ芯から炎を出して
「星よりも明るく、いろいろなもの明るく照らすことができる」と自慢した。
ところが風が吹くと、たちまち炎は消えてしまった。
側にいた人が再び火をつけてランプに言った。
「さあ、ランプよ照らしてくれ。そして黙るのだ。星の光は風が吹いても消えないぞ!」
ランプにとっては急に吹かれた風は、絶望を感じさせる試練なのです。
火を再びつければ、自分は再び周りを照らす事が出来、価値がある存在になれるのに・・
しかし自分では火をつける事さえ出来ない存在だったと気付くのです。
星より明るいと自負し疑う事がなかったのに・・
自分は容易く消えてしまう存在であった事。
今まで自分より価値がないと思っていた星は、何があっても光が消えない存在であったという事。
自分が風に消されて初めて気付くのです。
自分の高慢さが恥ずかしいものであったと試練を通して気付くのです。
主は愛するが故に試練を与えられます。
主を経験し、主に対する信仰を高める為に試練を与えられます。
自分の人生にとって何が正しいか、正しい道に歩ませる為に試練を与えられます。
より謙遜になる為に試練が与えられます。
ランプにとって試練に乗り越えるとは、再び自分に火が付けられることでしょうか。
私たちも試練に出会うと、まず願うのは試練を感じている問題が解決する事です。
早く自分がこの試練から解放され、以前の自分に戻ることです。
ランプは再び、火が灯されれば良かったのでしょうか。
ランプは、思ってもいない突然の風に見舞われ火が消え、絶望を感じます。
ランプは、自分が高慢であった、自分が一番だと思っていた。自分は何でもできると思っていた。自分一人で素晴らしい存在だ。(主はいらない)などと言う思いがあったが、
実は自分は何も出来ない存在であった。自分は簡単なことさえ自分一人では何も出来ない存在であった。自分の人生に主が必要である・・・
という事を学ぶ事が、試練から得れるものではないでしょうか。
これらの事を学ばず、「再び火を付けてもらう事だけが試練の終わり」であれば、
残念な人生ではないでしょうか。
ヨセフの試練には・・人が想像も出来ない主の計画があったのです。
ヨセフは試練を通らないと、主の計画がなされる事はなかったのです。
ヨセフの夢は「皆が自分にお辞儀をする事」・・私たちはその夢を通して、ヨセフが兄弟の中で一番出世するんだという事しか想像できません。
しかし、実際はヨセフが主の計画通りの試練を通り、主が与えられた準備期間も怠ることなく過ごし、ヨセフは家族だけでなく、エジプト、近隣諸国の命をも救う役割が与えられたのです。
ヨセフの兄弟は誰もが、ヨセフは死んだと思っていました。奴隷として生きているとさえ想像できなかったのです。
主の計画は私たちの想像を超えます。
試練の中には、私たちが想像すら出来ない主の計画があるのです。
人生に起こる問題は、プラスの理由があるのです。
試練の時、私たちは主を忘れてはならないのです。
自分が主の計画のただ中にいるという事を忘れてはならないのです。
試練の時、主から離れず留まらなければならないのです。
「暗い試練」も「明るい恵み」も、両方「主の祝福」なのです。
両方、主の計画のただ中にいるのです。
私たちがする事、出来る事は、主の中に留まるという選択だけです。
今日も、主の中に留まる一日をお過ごしください!!