神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16
今日、お祈りはしましたか?
いつも、一日の始め、何のお祈りをしますか?
「主よ。今日も目覚めを与えて下さり感謝します。今日も主の中で一日過ごす事ができますように・・・必要を満たして下さい。家族の健康を守って下さい。」などなど。
私も同じです。
今朝、ふとこの聖句を思い出し、私の祈りはこれで良いのだろうか?という疑問が生じました。
イエスさまの生涯を書かれた福音書。この4つの福音書を「共観福音書」と言います。
4人の人によって記録されたのですが、当時、それぞれが人々や後世に伝えたい事、記録として残したい事を記録しました。
ですから4つの福音書全てに書かれている出来事もありますし、1つの福音書にしか記録させていない出来事もあります。
そして、この福音書の著者によって、これを読むだろうとされる対象者が違います。
マタイの福音書は、ユダヤ人が読むと想定して書かれました。マルコの福音書は、ローマ人。ルカの福音書は、ギリシャ人に。そしてヨハネの福音書は、全世界に向けて書かれたのです。(だからと言って私たちにとってヨハネの福音書だけが重要な福音書という意味ではないです)
この「聖書の中の聖書」と呼ばれるヨハネ3:16も、全世界の人に読まれるという想定で書かれたのです。
ヨハネの福音書3章16節は・・・「聖書の中の聖書」「ミニバイブル」と言われています。
聖書66巻の内、この聖句が最も有名であり福音の要約と言われています。
この聖句が思い出されました。
「あ・・主は全世界を救おうと神の一人子をこの世に遣わされたんだ・・”世を愛された”と書かれてある」
私を含め多くのクリスチャンは、「(私を)祝福して下さい」「(私の家族を)救ってください」「(私の)問題を解決してください」と願い祈ります。
・・・なんとなく私は主を小さく考えていたんじゃないかと思いました。
主は「世を愛された」とあるのに・・もちろん私たち一人一人を愛して下さっています。
しかし私の頭の中は、あまりにも自分中心の様な気がしました。
「神さま、今私にこの様な問題があります・・」「わが子の、こういった問題を・・」「家族の健康を・・」
祈りが「私を・・」「私を・・」です。
主は、聖書に出てくる人物を通して教えて下さっている事に気が付きました。
神さまはアブラハムを通して、人類全体を祝福すると約束されました。(ガラテヤ3:8)
モーセも、ヨセフも、ダビデも、ソロモンも、エステル、ダニエル、パウロや弟子たち・・などなど
多くの者が主から大きな祝福を得ました。
そして主から頂いた祝福は、自分だけに留めて置くものではなく、周りの隣人に、世の中に主の祝福を伝え、祝福を流す役割だったのです。
主の祝福は、流すために与えられるのです。
私たちクリスチャンは、主の祝福の通路となり、用いられるべき存在なのです。
頂いた祝福を自分のポケットに入れるのではなく、流すのです。
クリスチャンが主の祝福の流れを止めてはいけないのです。
・・・なのに、祝福が自分に入るようにあまりにも祈り過ぎている様に感じました。
主は世を愛されたのです。
私は、あまりにも自分の心にクローズアップし、自分中心な祈りを捧げ続け過ぎているように思いました。
私たちは下(自分の心)を向いて祈る存在ではなく、上(隣人や世界)を向いて祈るべきなのです。
下ばかり見続けると、大きく働かれている主に気が付かないのです。
上を向いて祈ると、自然と下の祈りも解決されるのです。
とりなしの祈りは、隣人の為でもありますが、自分の為でもあります。自分も祝福されるのです。
もしかしたら「隣人まで思う余裕がない・・自分だけで精一杯・・立っているのがやっとなのに・・」と思うかもしれません。
しかし、問題に直面しているのは私だけではないのです。
特に、祈る事が出来ない主を知らない魂は、もっと苦しいのです。
イエスさまは、全世界を救うためにこの世に来られたのです。
天の父も、全世界を救うために神の一人子を送られたのです。
自分の問題も大切です。それらも祈るべき事柄です。
しかし主は祝福を流すために私たちに与えられているのです。
想像してください。
もし沢山の子どもたちが食べ物がなく飢えています。子どもたちは私に「食べ物を下さい!」と懇願します。
私は、誰にその食べ物を与えるべきでしょうか。
貰った食べ物を一人で抱きかかえ、誰にも分けずに一人で食べる子どもに与えるでしょうか。
貰った食べ物を、「皆に分ける心を持っている子ども」に与えたいと思うはずです。
祝福を流す為には、まず私が祝福を受ける必要があります。
どうすれば主の祝福を受けれるでしょうか。
隣人を思う心を持つ者になるべきです。とりなしの祈りをする者です。
ですから、とりなしの祈りは人の為であり、自分の為なのです。
上を向いて祈る時、自然と自分の問題も解決するものなのです。
主の関心は、世界です。
今日は、上を向いて祈りたいと思います!
とりなしの祈りの喜びが分かる一日となりますように!