ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
ヤコブ5:16
今年の秋に「六本木クラス」というドラマを見ました。(ドラマを見た時にブログに書きたいな‥と思いつつ忘れてました💦)
韓国ドラマ「梨泰院クラス」のリメイク版。もともとはウェブ漫画だったそうです。
ドラマの終盤の方でこのような詞が出てきます。
私は石ころ。
炎で焼いてみよ
私はびくともしない石ころ
激しくたたいてみよ。
私は強くて硬い石ころ。
深い暗闇に閉じ込めてみよ
私は独り輝く石ころ
やがて砕け散り灰になって消えていく
そんな自然の摂理さえ跳ね返す石ころ
「生き残った私は、私はダイヤだ」
とても素敵な詩ですよね!
「梨泰院クラス」の原作者・脚本家のチョ・ガンジンさんの詩だそうです。
ドラマを見ながら、「うわー-こんなクリスチャンにないたい・・」と思っていました。
ダイアモンド・・・もとは真っ黒な石。
黒い石がダイアモンドになるには、沢山の工程を通る必要があります。熟練の研磨師によって削られ磨かれ続けるのです。
金や、銀も、同じです。もとの石には不純物が入っています。
銀が、純銀に。金が純金になる為には、熱い熱い火を通らなければなりません。
金や銀を、火にあぶり不純物を浮き上がらせます。それを職人さんが流し取り、不純物がないピュアな銀に。ピュアな金に仕上がるのです。
火にあぶられ、削られ、磨きを通してやっと、輝く金、銀、ダイアモンドになるのです。
この様な過程を考えると、本当に主は自然の摂理を通して沢山の語りかけがあるんだなあ~と思います。
主は、私たちにも同じことをされます。
私たちの人生においても、自分のいたらなさ、醜さ、弱さ、辛く、苦しく、時には孤独で、見たくないもで一杯になった心、罪だらけの心、痛む心や体で、涙する時間を過ごします。
その度に私たちは、主によって磨かれているのです。
私たちにとっての熟練の研磨師は主なのです。
私たちの、真っ黒な石のような、罪にまみれた心や体を綺麗に洗い流し、傷ついた部分を新しくしされます。
真っ黒な石が輝きを放つダイヤモンドのように変えらえるように、私たちを磨き輝く姿に変えて下さるのです。
私たちが主によって新しくされ、「地の塩」「世の光」となる為に。
今も、自分の罪に心を痛め、
罪から離れられず、
人に傷付けられ、
人を許せない思いを持ち、
心や体が苦しみを覚え、
自分の中に正しい思いを持てず、
このような痛む心に蓋をしても、痛みは無かったことにはなりません。
取り除かないと、痛みや苦しみはなくなる事はないのです。
これらは、主からの語りかけだと思います。
主は、私たちが自分の心に何を入れているのか、何が入っているのかを直視して欲しいのです。
そして主が今、私たちを触れられ、私たちを癒したくて、新しくしたいと思われているのです。
主に触れられる時、「痛み」が伴います。
それは癒しを得るプロセスであり、私たちが、それらに向き合う為です。
見たくも思い出したくもない自分の過去。
目をそらさずに、主の前に祈りる事をお勧めします。
一番良いのは、、、自分の罪や心の傷を、信頼できる牧師先生に言い表し、祈ってもらう事です。
もしくは信頼できる誰かに話す事です。(危険もあります💦)
自分の弱さを打ち明けるのは沢山の人にではなく、1人でもいいのです。
自分の深い部分を言い表す事は、とても難しいです。勇気がいります。
しかし自分の中にある不必要な不純物は、取り除く必要があります。
良くない物を、いっぱい詰め込んでしまった私の心・・・
新しく良いものを入れる為に、一度空っぽにする必要があるのです。
かたくなに心を閉ざすと、「主の愛」と「主の癒し」は入って来ないからです。
主の愛と主の癒しを得られますように。
罪や痛みから解放されますように。
お祈りいたします。