「弱さ」を取り除かれない主【Ⅱコリント12:9-10】

2022年

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

Ⅱコリント12:9-10

パウロは、キリスト教を世界的な宗教に広める役割として用いられ、多大な貢献をした人物です。

パウロは新約聖書にある手紙、13書簡を書きました。

ガラテヤ、テサロニケⅠⅡ、コリントⅠ、ピリピ、ピレモン、コロサイ、エペソ、コリントⅡ、ローマ、テモテⅠⅡ、テトス・・・の順番で書かれた様です。

この順番に読んで見ると・・面白い事を見つけました。

パウロが書いた手紙を見ると、初めの頃(ガラテヤ書)、パウロは自分が「主の使徒」であると強調していましたが、段々と自分は「主のしもべ」という表現に変わっているのです。

(ガラテヤ1:1)では、

使徒となったパウロ—私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。

(ピリピ1:1)では、

キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。

始めに書かれたガラテヤ書では、かなり自分を「イエスの使徒パウロ」であると強調しているのです。

それはガラテヤ書だけでなく、それ以降にも強調は続きます。

しかし、ピリピ書からは自分の事を「イエス・キリストのしもべパウロ」となっています。

自己を「主の使徒」と強調していたパウロが、自分の事を「主のしもべ」と表現するようになったのには、何か心に変化があったのです。

パウロは、使徒として主に用いられる前は、主に大きな罪を犯す者でした。

キリストを信仰する者を捕まえ牢獄に入れ、クリスチャンを迫害する者として怖がられていました。

主と劇的な出会いを通して、パウロは回心するのです。

しかし、悪人として名高く、民に恐怖を与えていたパウロが、ある日突然回心したことを、人々は素直に信じる事は難しかったと思います。

ですから、尚更「自分は主の使徒」である!

変えられたんだ!と宣言したかったのかもしれません。

それがどうして「しもべ」と変わったのでしょうか。

パウロには「弱さ」がありました。

パウロの弱さとは、肉体的な問題です。

パウロは、高ぶることのないようにと、主によって肉体に一つの「とげ」を与えられたと言っています。(Ⅱコリント12:7)

このとげが何かとは書かれていないのですが、「肉体的な不自由さ」があったようです。

この弱さを取り除くために、主に3度も懇願しています。

しかしパウロは主に、肉体的なとげを取り除いてもらえませんでした。

主はパウロに、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。(Ⅱコリント12:9a)」と言われたのです。

ここで少し頭を過ぎるものは・・・

パウロは、沢山の人を主の名において癒しを行う事が出来ました。

パウロは自分の身体の問題に対して祈ったはずです。しかし、自分の身体には癒しの奇跡が起きなかったのです。そして主に懇願しても癒しを受けることが出来なかったのです。

パウロに対して、主の癒しに対する返答(Ⅱコリント12:9a)を見ると、人それぞれに「弱さ」は必要だという事が分かります。

私たちが「癒されたい!!!」と願っても、主の目から見て「必要な弱さ」というものが存在するのです。

「弱さ」とは自分にとって重荷であり、自分を束縛するものであり、ハンディキャップを感じるものです。

しかしパウロは、「自分の弱さ」が用いられ、弱さがあるゆえに自分に働かれる主を知るのです。

そしてパウロは、このように言います。

「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12:9b-10)」

弱さを用いられた主。

自分の弱さが「使命」となり、弱さは「誇るべきもの」となったのです。

キリスト者を迫害していたパウロが、主に出会い、砕かれました。そして「自分の弱さ」を通して、もう一度砕かれたのです。

そしてパウロは砕かれ、自分の力ではなく、弱さを用いて下さる主が共に居られ、主が自分を通して働いておられると覚え続ける為に「とげ」を持ち続ける。このとげは、主からの贈り物だと気付くのです。

パウロはこれ以上、自分を「主に選ばれた使徒」である! という主張が不必要になり、自分は「キリストのしもべ」であるという事に恵みを感じるように変えられたのです。

私たちと主との距離感、親しいかかわりの邪魔をするものは「高ぶり」「高慢」です。

その高ぶりから私たちを守るものは、「謙遜」「へりくだり」です。

主が私たちに「弱さ」を与えられるのは、あらかじめ、先行的に、主の恵みを持ち続け歩めるように、私たちを留めて置くことをされているようです。

心にある高ぶりや高慢な心が砕かれ、私たちはへりくだる事が出来るのです。

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ(箴言16:18)」

今日は、自分の中の高ぶり・高慢について祈りたいと思います。

主に砕かれ、一層主と近くで生きていける者となりますように。

今日も、主の平安に包まれる一日をお過ごしください!!

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