彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。
ホセア13:6
一日にどれぐらい主の名を呼び、主を思い出しますか。
私たちは、日々忙しく、なかなか主を思い出す事が難しい生活を送っています。
聖書には「主を忘れてはならない」「主を覚えよ」と言う御言葉が沢山あります。
私は、何か大きな問題が生じている最中は、何をしていても主をよく思い出せ、仕事をしながらも主の名を呼ぶ事も出来るのに・・
特に問題がない日常は、なかなか主を思い出せなく
どうしたら、主を覚えて生活できるんだろう・・・と悩んだ時がありました。
特に家の外に出ると主を忘れ、目の前の仕事に集中してしまいます。
そんな時、聖書を読んでいてハッとさせられた御言葉がありました。
「彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。」
確かに・・・
私は、「食べ飽きていた」のです。(”満足した”の意味)
主を慕い求める飢え渇きがなく、主が居なくても特に問題なく過ごせていたのです。
1日の中でも、主なしでも「これは自分の力でできる」「これくらい問題なくこなせる」と思ってしまっているのです。
無意識に行う、ルーティーン。特に考えることなく、日常的に物事をこなしていく事が出来る事は、自力という意識もなく済ませていました。
主の助けを必要と感じていないのです。
イスラエルの民と同じでした。
困難が起きた時は、求め、与えられれば満足するのです。
イスラエルの民が主を忘れ、心が高ぶったのは、「食べ飽きたとき(満足した時)」です。
何かに満足したり、満たされた状況だったり、十分にあると思う状況、特に不足を感じない時は、私たちは主を忘れてしまう性質があるのです。
主を忘れることは、心が高ぶっている状態だと気付かされました。
日常生活で主を忘れないようにする為に、どうすればいいんだろう・・と考えました。
自分なりに意識を主に向けれるように考え色々試してみました。
仕事で使うペンは、キリスト教系のものに。
会社のパソコンの隅に小さなハートのシールを貼りました。
そしてそのハートが目に入る度に「主よ・・」と心の中で、心から主を呼ぶようにしました。
電車の中ではSNSを見ないと決め、聖書を読む時間としました。
スマホのロック画面を、主を思い出せる写真に設定しています。
私は「月」の写真です。
幼い時に母親が家庭礼拝をしてくれていて「あなたもイエスさまが見ていたものと、同じものを見る事が出来るんだけど・・何ーんだ?」とクイズを出したのです。
「えー何だろう・・」とちょっとドキドキしたのを覚えています。
答えが分からず母親が「月」と言い、幼いながらも凄く心がキュンとなりました。(もちろん、太陽も星も同じなのですが。「月」と言った母の言葉が心にはまったのです。)
信仰を持ったのは大人になってからですが。そのクイズ以降、子どもなりに寂しい思いをしたり、悲しい思いをした時、月を見上げる習慣がつきました。
少しづつ成長するにつれ、悔しい思いをした時、自分が無力に感じた時、自分の存在について考えさせられた時など。。
色々な感情が生じる時に、月を見上げました。「イエスさまはどんな思いでこの月を見たんだろう・・何度も何度も見上げたんだろうな・・」と思っていました。
だから、私にとっては「月」を目にすることが、主を思い出せるものになっています。
一日に何度も見るスマホ。スマホを開く度に月の写真を見て、主の名を呼び、短く祈るのです。
また、自分の家のパソコンに、「メモ帳」の機能を利用して「お祈りする人の名前」を書いてパソコンに貼っています。
パソコンを起動するごとに、まずそのメモが目に入るようにしています。そして祈ってからパソコンで作業するようにしています。
救われていない兄弟とその子どもたちの名前。友達の名前。Twitterなどで一度でも「祈ります」と言った人のアカウント名と祈りの課題。救われているけれど祈りのサポートが必要な人の名前。などなど。メモの色を変えて貼っています。
家の玄関(内側)には、キリスト教書店で購入した十字架のマグネットを貼っています。家を出る度に「主よ。覚えていますよ」と心で話しかけたりします。
後、家の何箇所かに家族の写真を置いています。毎日、その写真を見ながら救いを祈るようにしています。(ルーティーンです)
自分の2人の子どもは単体の写真で置いています。
長男は中学生の時の写真です。長男は、中学生の時に「自分は誰よりも弱い人間だと思う。直ぐにイエスさまを忘れて一日過ごして・・夜に凄く後悔する。自分がイエスさまから離れないよに、誰よりもイエスさまを覚えて生きていけるように、イエスさまをずっと考えられるように、牧師になりたい。」と言いました。
長男がそのように言った時期、教会の賛美チームに入っていて、前で賛美をしている姿の写真が一枚あります。それを家の中に置き、その写真を見る度に「この時の思いを忘れることなく、色褪せることなく持ち続ける事が出来ますように」と祈っています。
ユダヤ人たちも、日々主を覚え続けようと努力をしました。
テフィリンという小さな箱を身に付けたり、
「あなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない(申命記6:9)」という言葉をその通り行おうと、家の入り口にメズザー(門柱)と呼ばれる箱を取り付けたりしました。
それを見たり触ったりしながら、主を忘れて生活しないように努力をしたのです。
しかしやがて、それらも形式的なものになってしまったのですが。
私も、ボールペンをみても何も思わなくなったりもしました。始めは良かったのですが、あまりにもずっと使うものだからか・・💦 でもふと、また主を思い出したりもするのです。
良くも悪くも習慣です。
朝、目覚めて「形式的な祈りをする事がありませんように」と祈ってスタートします。
私の友達で「いつも主に答えを貰う時?・・内なる声を聞く時ってトイレの中なのよね・・」という友達がいました(笑)
どうしてトイレの中なんだろう・・と2人で話た結果、
この友達は忙しすぎるのです。常にフル回転で物事を判断して仕事をしています。
多分、トイレに入った時が、一番心が空っぽになっている状態なんだと気付きました。
確かに・・心を開かないと、心を空けないと主は入って来れないのです。
他に心が奪われている時、何を語られても私たちは気付かないのかもしれません。
それに気付いた友達は、それ以降、出勤時間を少し早め、仕事前にカフェに行って心を空にしたり、公園のベンチに座って心を空にする時間を持っているようです!
今日も、沢山!! 主を思い出す一日となりますように!!