私たちはツロからの航海を終えて、トレマイに着いた。そこの兄弟たちにあいさつをして、彼らのところに一日滞在した。
翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家に入って、そこに滞在した。
この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。
幾日かそこに滞在していると、アガボという預言者がユダヤから下って来た。
彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される』と聖霊がお告げになっています」と言った。
私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ。
するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでえなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えた。
彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに」と言って、黙ってしまった。
使徒の働き21:7-14
今日の聖書の個所は、パウロの3回目の伝道旅行、エルサレムに向かおうとしている所です。
パウロの伝道旅行を読むと、いつもパウロに会ってみたいと思います。
どの様な思いで長い伝道旅行をされたのか、この時はどの様な心情だったんだろう・・・とか色んな思いが押し寄せてきます。
今日の個所は、3回目の伝道旅行の終盤です。とうとうエルサレムへ向かおうという時の話です。
今までの伝道旅行で、歓迎された地域もあれば、歓迎されない地域もありました。
カイサリアという所からエルサレムへ向かおうとする時、パウロはピリポの家に泊まっていました。そこへ預言者アガボが来て、パウロに対して予言をするのです。
しかも予言は言葉だけでなく、目に見える形でされたのです。アガボはパウロの帯をとり自分の手足を縛り、パウロはエルサレムでこのように縛られ、異邦人の手に渡される・・・と。
これを聞いた町の人々、ルカたちも、パウロを止めます。エルサレムに行かないように懇願するのです。
パウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでえなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えています。
「私の心をくじいたりして」、、、と書いてあります。泣いて懇願する人々に、パウロも愛情があったでしょうし、どのような思いで懇願しているのか、人間的な感情は十分感じていたのだと思います。
しかし、パウロは人間的な感情とは別に、私は使命を果たさないといけない!という思いを強く持つことが出来ました。
これって本当に本当に難しいと思います。
周りの人たちはパウロを尊敬し愛していました。だから心配するのです。生命の危険が予言されている所へ、黙って見送れなかったと思います。
死ぬと分かっている道に進まず、他の所で伝道旅行を続けてもいいのでは? もしくはずっとここに居て私たちを励まして下さい。とも思ったのではないでしょうか?
パウロもピリポの家に、かなりの期間滞在したと記載されているのを見ると、良い交わりの時間を持っていたのではないでしょうか?
エルサレム行きを止めたのは、町の人々だけではなく、パウロと共に旅行をしていたルカたちも止めています。町の人々が涙で懇願し止めるのは理解できますが、共に旅行をしていた弟子たちも懇願したのです。
確かに・・・・何か御心を行おうとする時に、それを阻止するのは、家族であったり身近な人が多いようです。
一番の理解者であって欲しい身近な人に、止められる事が多いようです。
これってしんどいですよね。お互いに・・・
パウロにしたら「一番分かってくれてると思ってる人」に自分の決心を揺さぶられ、
身近な人の立場では、「大切なあなたを失いたくない。常識的に考えて、その判断は違うと思う」と思うのではないでしょうか?
現代でも同じです。案外、身近な人が阻止してしまう事が多いようです。
もちろん身内が必ず阻止するという話ではないです。一番分かってくれそうな身内でも阻止してしまう事があるという話です。
どうしてでしょうか?
サタンにしたら、御心を行う人を阻止する為に、身近な人を利用するのが一番効果的だからでしょう。
という事は、私たちは、良心、愛情、常識など、良き判断だという思い一杯で「頼むから行かないで!!」と、サタンの働きに利用されてしまっているかもしれないのです。
御心を行おうとする者にとっても、止める相手は自分の敵ではなく、自分の事を誰よりも愛し心配してくれる人なのです。
マタイの福音書を読むと、イエスさまも、弟子たちに十字架の死と復活について示された時・・・それを聞いたペテロは、イエスさまを引き寄せて、「あなたに(そのような事が)起こるはずはありません。」と言いました。
イエスさまは振り向いて、ペテロに「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(マタイ16:23)」と言われています。
敵ではなく見方を利用するなんて、サタンって凄い所を狙うな・・・と思いませんか?
私たちはどうしたら良いのでしょうか?
パウロは同行している弟子たちに、どれ程、自分に与えられた御心を分かち合っていたのだろう?と思います。スッゴク分かち合っていたけれど、信仰に差があったのかもしれないし、パウロの熱量が伝わっていなかったのかもしれない。
教会で何か行事をする時、共に祈って準備をします。これって本当に本当に大切です。
単に、「主の御心がなされますように。主に依り頼みます。」とお決まりの祈りではなく・・・皆が同じ思いを持って準備をする必要があるからです。身内から阻止する人が出ないように。
礼拝も同じです。牧師夫婦だけでなく、役員、スタッフが日頃から良く交わりを持ち、同じビジョンを共有する必要があります。攻撃から守られる為に。
「交わり」って凄く大切です。祈りの課題を共有し、共に互いの思いを知り、互いの為に祈っていく・・・
今日はどうしたら、もっと深く交わりを持てるのか、私は周りの人としっかり交わりが持てているのか考えたいと思います。
皆さまも、主の御心を選ぶことが出来る一日となりますように!!