わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
ヨハネ15:2
主はどうして私たちに苦難を与えらえるのでしょうか?
主は、私たちが祈って直ぐに、願いを叶えてくれる訳ではなく・・・
また、聖書を見ても、主から人間に約束されても、直ぐに与えらない事が多いようです。約束が成就するまで時間をかけて、遠回りをしてるように感じませんか?
まず思いつくのは、ヨセフ。子どもの時に、親や兄弟が自分にお辞儀をする夢を2回見ました。しかしそれはすんなりと成就する訳ではなく、まず、エジプトの奴隷として売られ、牢屋に入り、成就するまで・・・22年もかかっています。
ダビデも、幼い時に油注がれましたが、忠実なサウル王のしもべであったのに、王のねたみにより命を狙われ逃げ続けました。かなりの時間が過ぎて、ダビデもイスラエルの王となるのです。
主はどうして、このように待たせるのでしょうか。
ヨセフとダビデは、主に待たされた時間、2人とも何もしていなかった訳ではなく、「苦難」の連続の中で時間を過ごしたのです。
「苦難」の中を通る事によって、信仰が成長し、品性が磨かれ、器が整えられていったのです。
最近気付いたことがあります。
自宅のベランダから、小さな田んぼが見えるのですが。
毎年4月になると、トラクターで土を耕し、水を張られます。
そして決まって毎年、GWにいつも田植えをされています。家族総出で毎年GWです。
「あ、今年もGWに田植えされてる。お孫ちゃんも一緒か~ 息子さんが仕事休みだからGWに実家のお手伝いで毎年来るのかな~」と一人で思っていました。
朝早くから夕方までかけて、丁寧に稲を植えられています。
そして次の日の朝、ベランダから田んぼを見ると、綺麗に可愛い稲が並んで植えられているのです。
稲が日に日に大きく成長するのを見るのは楽しいです。
でもある時、水が少なくなっていました。「これから段々と暑くなるのに、早く水いれてあげて欲しいな~週末に水入れに来られるのかな~」と思っていましたが。
来られません! 日に日に水が無くなり、カラッカラになり、田んぼの土が割れて来ています。
「え・・・せっかく苦労して田植えされたのに、どうして水を張らないんだろう。もしかして体調が悪くて来れない・・・?」と色んな事を想像していました。
「もう、限界じゃない?稲が可哀相・・」と稲に元気がなくなった頃、持ち主の方が来られ、水を張りました。
「あー体調崩されたんじゃなかったんだ。忙しかったのかな・・」と思っていました。
気が付けば、毎年そうなんです!
GWに家族総出で、田植えをされて日に日に成長したところで、水がカラッカラになるまで水をいれないのです。
何年間も見て、「これって意味がある工程なのかもしれない・・・」とやっと気づきました。
ネットで調べえてみると。
田植えをして、1ヶ月程すると、水を抜き、土をカラカラにするのです。なんと2週間も水を与えません! (暑いのに・・・)
これは「中干し」といって稲作において大きな意味があるようです。
中干しする事によって、「稲の根が強く張り、土中に酸素を補給して根腐れを防ぎ、根の活力を高める」そうです。
稲が立派に強く美味しく育つ為に、必要な過程だったのです。
必要性を知らなかった私は、ベランダから稲を見て、「稲、可哀相・・」と思っていました。
稲も、水が与えられず、死にそうな思いになってるのには訳があって、自分が強く美味しく成長する為の過程だとは、分かってないハズです。
稲の立場から見たら、どうでしょう? 毎日とっても暑いのに、水を与えてもらえず、死にそうになり・・・
私が稲なら「え・・? 植えたのに水くれないの? じゃ、どうして植えたの?」と思うと思います。
稲にとってはたまらなく辛い、苦難の期間かもしれません。しかし稲作には必要な過程なのです。
稲には理解できなくても意味があるのです。
もし今、苦難の中に居られる方がいらっしゃったら、「主が私たちにとって必要だから与えた時間」だと知らないで過ごしているとしたら、
それは辛いだけの時間となってしまいます。
稲が「え・・? 植えたのに水くれないの?」というような、不満の感情しか出てこないと思います。
今、自分を取り巻く苦難が、どのような意味があるのか、何の為の苦難なのか、私たちには分からないかもしれません。
ただ、一つ分かっている事は、主が苦難を、「私の為に与えられた」という事だけです。
あまりにも、私の不平不満の声が大きすぎると、主の小さな声は、自分の大きな声に邪魔されて、私の耳には届かないからです。
信じて祈りながら、今の時を過ごす事をお勧めします。
そして主が自分に何を教えて下さっているのか、という事に集中する事です!
今日も、主の中を歩みましょう!
祝福された1日となりますように・・・