しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。
白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。(新共同訳)
箴言16:31
どのように歳を重ねるか・・・
私達は日に日に歳をとります。
日に日に、老化していき、日に日に「死」に向かって生きているのです。
そう思ったら、ちょっと怖くも感じ、不安にもなるし、悲しくも感じます。
晩年、父親が「もう嫌になる、、すぐに、忘れる。用事あってあの部屋に入ったのに、入った途端、何をする為にこの部屋に来たのか覚えてない。これからが怖い。これから、もっともっと忘れて行くかと思うと嫌になる。」と言いっていました。
多分、殆どの人が、歳をとり、ある程度の年代になるとこれから先が不安になります。
若返ることはないのですから。少し記憶力が以前より落ちてきたと感じたら、それからは落ちていくしかないのですから。
若い時は、老後なんて考えもしないですよね。
まだまだ、、、まだまだ先の事だから。(若い時は、自分は死なないと思って生きています。同じように歳をとらないと思って生きています。)
しかし、誰もが「これからの人生」「残りの人生」を考える時が来るのです。
「歳をとる」というのは、たとえば、足腰が弱り長い距離が歩けなくなったり、反射神経が衰えたり、今まで出来ていたことができなくなります。外見も内面も身体の機能が低下し、若い時に比べると断然体力が低下してしまいます。また、物忘れが多くなったり、同じことを何度も繰り返し話してしまい、周りの人にも「あれ?」と気付かれてしまったりします。
出来なくなることが目に見えて増えるので、歳をとることをマイナスに考えてしまうのです。
どうすればいいのでしょうか?
聖書的に考えてみましょう。「歳をとる」ということは、主から与えられた信仰の歩みを、また一つ重ねるということです。
今日の聖書の個所を見てみると(新共同訳)
主に従う道を歩んで来た者の白髪は、輝く冠・・・とあります。主と共に歩んだ者の白髪を「輝く冠」と表現しています。
長い月日を、主と共に人生を歩み、自分の命が主の命と撚り合わさって、私たちは主の似姿に変えられていくのです。
主の似姿に変えられるとは、一朝一夕では無理なのです。沢山の時間も必要ですし、主との沢山の交わり、経験が必要なのです。
歳をとり、確かに肉体の衰えを感じたとしても、私たちの内面、信仰は強く堅固なものと成長させることが出来るのではないでしょうか?
聖書の御言葉を、心と霊に刻み、信仰生活で体験した、主の愛や主の知恵を何層にもして持つことが出来るのです。
また「死」を意識する事により、主との関係を、時折確認するのではないでしょうか?
単に「歳をとる」と言うより、月日を費やし、沢山の経験、成功や失敗を重ね、主にあって人生を豊かにし、私たちは主の似姿に変えられていくのですから「歳を重ねる」という表現の方が良いような気がします。
主との交わりを重ねて、霊的にも人格的にも、キリスト者としてレベルを上げていくのです。
長い信仰生活を通して、キリストの似姿に変えられ、主の香りを放つ者として成長していくのです。
今から、単に歳をとるのではなく、主にあって「歳を重ねる生き方」を選ぶべきです。
今日も、主と沢山の交わりがありますように!
お祈りいたします!