リモート礼拝➀【箴言27:17】

2022年

鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。

箴言27:17

周りのクリスチャンで、コロナ禍でずっとリモートで礼拝を捧げている友達がいます。

「も~! リモートが楽!楽! 教会に行って交わりも十分に出来ないし、1時間かけて行っても、賛美もしなくて聞くだけ、メッセージを聞いて、簡単に教会の人たちに挨拶して、また1時間かけて帰って来るだけ。だったら、もうずっとリモートでいい!」と言います。

どうですか?

今、世界中でこのリモート礼拝が良い! わざわざ教会に行かなくても・・という声があります。

教会離れが問題になってきています。

この友達に「信仰的にどう?」と聞いたら、「何か反対に、ずっと休んでたのに今更、教会に行きにくくなったし、リモートだったら時間を気にしなくて良いから楽!」

「いつでもメッセージを聞けると思ったら、礼拝せずに過ごす事はない?」「ある(笑)」「今も以前の様に、主を近くに感じる?」「そーなのよねー-段々と心に距離が出て来てるのは感じる・・」「このまま過ごしたら信仰が無くなるとは思わない?」「多分、なくなる・・・」

まだコロナが終息したとは言えないし、また第8波か?と言われている最中、教会に行っても以前の様な教会での礼拝や、十分な交わりができません。

まだまだ、人が集まる所に行くことに、不安を感じる人もいると思います。

体調を考え、絶対にコロナを避けないといけない方もいらっしゃいます。

色々な理由があると思いますが、(コロナ以外にも、同じ教会員の人に失望するとか・・)

聖書には、

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:20)」と書いてあります。

今日の御言葉にも、「人はその友によってとがれる」とあります。

鉄は鉄によって研がれます。「研がれる」とは、すりみがいて、光やつやを出させる事です。

鉄は鉄で、打ちたたいて鋭くするように、人も友によって研がれるのです。

主は、私たちが交わる事、互いに霊的に高め合う事を望まれているのです。

親は子どもがある程度成長すると、子どもが小学校に送り、友達と共に学び、共に遊ぶことを望みます。

いくら可愛くてたまらない子どもであっても、ずっと家から出さないでおこう!とはしません。

それは、学校へ行き、友達を作り、人間関係を学ぶ為です。時には喧嘩をしたとしても、それを通して友達との関係を修復する事を学ぶことを望んでいます。

小学生の子どもは、大人が見たら小さい事でぶつかり合ったり、喧嘩になってしまったりする事もあります。

時には、友達を傷つける言葉を平気で言ってしまう事もあります。

その様な失敗を通して、「こんな事は言ってはいけない言葉なんだ・・」と学ぶのです。

自分とは違う人格を持った友達の言葉や行動、考え方に影響を受けたりもします。良いものも悪いものも見ます。

幼い子どもが、家に帰って来て、学校の友達の事を「〇〇ちゃん、嫌い!」と言ったとします。親は何て答えますか?

その一言を聞いて「もうそんな学校、明日は行かなくていいよ」とは、ならないと思います。

どうして嫌いだと思うのか。何を言われてどう思ったのか。と話を聞いてあげるのではないでしょうか?

そして、親は出来るなら、みんなと仲良くなれる方向へと導くはずです。

学校は、勉強だけでなく、人間の成長に必要な場所でもあります。

勉強さえできれば、人間関係は必要ない!という親は・・・殆どいないのではないでしょうか?

私たちクリスチャンも同じです。神の子となって、私たちはまだまだ幼いのです。

子どもが小学校で、色々と学ぶように、私たちも自分とは違う考えを持つ神の子たちから、色々学ぶ必要があるのです。

救われた神の子たちは、全てが良いものではないと思います。

「本当に神の子?」と思う事を言う人が居るかもしれません。それは、その人がまだ幼いのかもしれません。もしくは、凄く大きな傷を持っており、苦しんでいる最中、癒しを得る過程なのかもしれません。

親が、勉強だけ出来る子どもとして育てないように、

主も、自分だけが信仰を持つことを望まれていないと思います。もちろん信仰を持ち、救いに預かる事は一番大切です。

しかし、主は、私たちが神の子として成長し、磨かれる事も望まれています。

磨かれる為には、神の子の交わりが必要なのです。

お互いに考えも感じ方も違う神の子が、互いに愛し合うという方向を見つめ、交わる事が磨かれる方法なのです。

「人はその友によってとがれる」という御言葉。

この「友」とは、「人」という意味と、「主」という意味があると思います。

主も私たちの「友」でもあるのです。

私たちは、未熟な成長過程の友(クリスチャン)と完璧な友(主)がいるのです!

 

良き信仰の友をつくるには、誰からでも学ぼうとする姿勢をとる事が重要です。

共通する弱さだけで交わるのではなく、互いに異なる強い部分でも交わるべきです。

導かれた教会には、少なからず人が居ます。(開拓伝道教会であっても牧師夫妻がいます)

その方たちは、主が自分に与えられた友ではないでしょうか?

自分の目には、「ここの教会員は・・」と思えるかもしれませんが、

主はその場所で、研かれようとしているのかも・・・しれません。

今日は、主日!

礼拝はもちろん、神の子たちと交わりも期待します。

良き、主日となりますように・・・

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