それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
ルカ19:1-6
劣等感に悩まされることはないですか?
今日の聖書の個所に出てくる、取税人のザアカイ。
彼が劣等感を感じていたかは分かりませんが、背が低く、取税人という職業柄、人々に嫌われていたそうです。寂しい人生だったのではないかと思います。
「劣等感」とは、「自己価値」が低いから起こるのです。
人と比べ、自分は劣っている不足していると感じ、自分の存在が脅かされるように感じるのです。
育った家庭とか、学校は、成績で優劣を決めてしまい、一人の人間の評価となってしまっています。親は悪気がなくても、他の兄弟と比べたりします。また、どこの大学に進学したのか、どこの会社に就職したのかによって、劣等感を覚えたりします。
私たちは、人と比べて、劣っているとか優れているという価値観の文化に囲まれています。自分が人と比べて勝手に劣等感も持つだけでなく、他人から劣等感を与える場合もあります。
このような世界で生きていると、人は自分の弱い部分、劣等感を隠して生きようとします。それは、辛い生き方になりますし、変にエネルギーの浪費する生き方となります。
また酷い劣等感は、人間関係にも影響を及ぼします。 劣等感のある人は、正しく人を見れません。正しく人を認める事はできません。
劣等感をバネにし、人にバカにされないように頑張る人もいます。 しかし何か事を成せたとしても、劣等感から解放された訳ではないです。 何か人より秀でて優越感に浸ったとしても、また何かのきっかけで劣等感を感じたりするものです。 根本的な解決にはなっていません。
どうすれば、この劣等感から解放されるのでしょうか?
究極的な解決は、創造主なる神さまを知ることです。
主から私に与えられた、自分の人生を歩めば良いのであり、人と比べる必要はありません。 もし、自分の存在価値を正しく知るなら、人より劣っていても、自分の存在価値が脅かされることはありません。
主は、目的を持って一人一人を創造されました。 一人一人に主は計画をお持ちなのです。 偶然、私が、このような容姿や性格で生まれた訳ではないのです。 偶然にも、背が高かったり、背が低かったりする訳ではないのです。 主のデザインです。 主の本来の計画通り造られたのです。
ですから、主が与えて下さったもの、能力、身体、性格、思考、得意分野を生かして生きて行くのです。
しかし、私たちはいつも主に文句を言ってしまいます。「神さま、私はどうして・・・なのでしょうか? もっと・・・だったら・・」
もし、ザアカイが、背が高かったらどうでしょう?
ザアカイの背が高かったら、いちじくの木に登らなかったでしょうし、イエス様を信じることもなかったかもしれません。イエス様に出会わなかったら、嫌われ者として寂しい人生送っていたかもしれません。
ダビデが羊飼いという仕事をしていなければ、ゴリアテと戦う事はなかったでしょう。 ダビデは8番目の子どもでした。 家庭で重要な仕事を与えられていたのでしょうか? 一番小さいダビデには、誰もができる仕事を与えていたのではないでしょうか? ダビデは、誰にでもできる、つまらない仕事を忠実に行ってきたので、ゴリアテと戦えたのです。
自分の、今置かれている状況、自分や人の目にはつまらなく、魅力ないものに見えたからといって、私たちの人生はまだ続くのです。まだ結果は出ていないのです。
ダビデはゴリアテと戦う事を目標に、羊飼いをしていた訳ではないのです。 与えられた羊飼いの仕事をすることによって、時が来て、ゴリアテと戦ったのです。
羊飼いをしながら琴を弾いたようです。羊飼いという仕事だからこそ、琴の練習を毎日できたのではないでしょうか?
琴が上手であったからこそ、サウル王がいる宮殿に呼ばれたのです。サウル王に気に入られ宮殿で暮らしたのです。 サウル王は「気に入ったからダビデを近くに置いた」と思っているでしょう。しかし、ダビデは、宮殿に入り、サウル王の近くで国を治めるという事を学んだのです。 ダビデがイスラエルの王になる為の、主の導きなのです。
クリスチャンになって自己価値が回復すると、自然と劣等感からも解放されます。
「劣等感は信仰までも腐らせる」という言葉を聞いた事があります。
クリスチャンになっても、劣等感から解放される必要があるのです。
劣等感から解放されるためには、
主が下さった「自己価値」を回復させる必要があります。
まず、自分の弱さを劣等感を認めるのです。
自分や世の中の価値観に、焦点を合わせず、聖書に焦点を合わせて下さい。
主は今日も言われます。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)
主が愛している自分を、受け入れ愛せますように! お祈りいたします!