アブラムの妻さらいは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
創世記16:1-2
アブラハムの妻サラ。
アブラハムが75歳の時に、生まれ故郷を出て私が示す地(カナン)へ行くように示されました。
アブラハムたちがカナンに着いて、主は「あなたの子孫に、我はこの地を与える」と子孫の約束をされました。
アブラハムが85歳、サラが75歳になってもまだ子どもを授かりませんでした。サラは、自分が子を授かるのは無理だと判断し、サラの女奴隷「ハガル」によって子を授かろうと決断したのです。
ハガルはサラの望み通り妊娠し、男の子「イシュマエル」を生みました。
しかし、アブラハムが100歳の時に、サラは男の子イサクを生んだのです。
主の約束は成就されたのです。
今日の御言葉は、
サラは「自分を通して子を与える」という主の約束を貰いながらも、自分の女奴隷ハガルを通して子を得ようとするところです。
サラはどの様な心情だったのでしょうか?
サラが天幕の入り口で、旅人の言葉を聞いて心の中で笑った。(創世記18:12)とありますが、
実際には、サラより先にアブラハムが笑っているのです。
わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか。」(17:16-17)
2人とも、単なる不信仰でしょうか?
この時代、社会の常識として、女性は子どもを産んで当然という慣習に対して、「不妊の女」として長年、苦しい思いをしていたと思います。
子どもを、長い時間、望んでいたと思います。何度も諦めては、諦めきれず、また諦めては・・・の繰り返しだったのではないでしょうか?
そしてかなりの高齢になって「子を産む」と言われ、喜びより「今までの挫折感、失望感」の方が大きかったのではないでしょうか? サラが常識的に子どもを生める年齢であれば、喜びが先にサラの心を満たしたかもしれません。
しかし、今までの長い結婚生活での子どもが生めないという失望感は、かなり大きかったと思います。「今更? こんな高齢な私に希望を与えるのですか? もう失望感は味わいたくないです。」と言ったよな思いが、笑いとなったのではないかと、私は思います。
しかし、「待望の子ども」です。半信半疑であったにしろ、絶対に成就して欲しい主の約束です。
待っても待っても与えられない。サラは主の約束が成就するように、主を「手助けしたい気持ち」があったのかもしれません。 「流石に私を通しては難しいでしょうから、私の奴隷ハガルを通して成就してください」と言うような・・・
かなり難しい約束だから、ちょっと妥協しますので成就してください的な・・・
私たちもこんな経験はないですか?
主に約束を頂き、待っても待っても成就せず、自分の力で成就させてしまうこと。
もしくは、どうしても成就して欲しい事があり、無理やり「主から約束を頂いた」と受け取り、自分の力で、成就させる事。
私は今までの信仰生活で、沢山あるような気がします。
主は、私たちが手助けしないと成就出来ない方ではないです。
しかし、待てない・・・ 不安になる・・・ 早くして欲しい・・・
忍耐を持って、主を信頼し続け、待てるような信仰を持ちたいです。
サラは、待てなくなり、アブラハムにハガルを与えました。 しかし、主を待たず自分から成就に向かう事により、苦しみを得たのです。
ハガルは、自分が妊娠したと知り、自分の主人であるサラを見下すようになりました。 サラにとっては大きなストレスです。 単に腹が立つだけでなく、自分の弱さに漬け込まれたハガルの態度は、一層サラを傷つけたのではないでしょうか?
サラは、ハガルをイジメます。ハガルが家を出るまでイジメたのです。
また、サラにイサクが与えられ、イサクが幼い時に、イシュマエルとハガルが、イサクをからかうのを見てしまいます。 結果、イシュマエルとハガルは追い出される羽目になりました。
サラが、主を信じて待たず自分で動いた結果、この様な事が起こったのです。
主を信じて待てば、この様な事(ストレスや傷)を経験しなかったのではないでしょうか?
サラも、ハガルも、イシュマエルも。
信じて主を待てる信仰を持ちたいです。
主を信じて待てる信仰を持つために・・・私たちが揺れ動かないしっかりとした信仰を持つ必要があります。
しっかり主を信じる事が出来るように、日頃から、主との深い交わりが必要です。
今日も、主の中で豊かな一日を過ごすことが出来ますように。お祈りいたします!