わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
イザヤ書61章10節
神の御国に入る時の、‟ドレスコード”は、何か知っていますか?
これがないと御国には入れません・・・
「救いの衣、義の衣」です。
私たちは、自分の罪を悔い改め、信仰告白し、神の子とされました。
神の子とされた時に「救いの衣、義の衣」を着せて下さっています。
これは、私たちが「主によって救われ100%義である」という証なのです。
イエス様が、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知った時、
弟子たちの足を洗われました。(ヨハネ13:8-10)
シモン・ペテロは恐縮し、「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言い
イエス様は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
ペテロは「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエス様「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
弟子たちの足を洗われた時に「水浴した者は足以外洗う必要はない」と言われています。
私たちは、100%義であるという「義の衣」を頂きましたが、
この世に生きる限り「足」は汚れるという事です。
この世で私たちは、他人を傷つけることもあれば、自分が傷つくこともあり、
罪を犯してしまったりもしてしまいます。
だから、その度に、主に対して自分の罪を告白し、「自分の足を洗う」必要があるのです。
罪を犯してしまったので礼拝には行けない。教会には行けない。
他人に対しても「あなたは来るべきではない」と判断するのは間違えています。
この世に生きながら皆が、「自分の足」を汚してしまうのです。
だから尚更、主の前に歩み出て、罪を許してもらい清めてもらう必要があります。
マタイ22章に「王子の結婚」の話があります。
これは「天の御国」がどのような物かを例えて書かれています。
「最初に招かれたにもかかわらず来なかった人」とは「イスラエルの人々」のこと。
「王子」はイエス様。
「大通りの人々」は「異邦人」を意味します。
この結婚式には特別に招待された人々がいましたが、皆、出席しませんでした。
王は『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』と言いました。
王に頼まれたしもべは出て行き、
良い人でも悪い人でも声をかけ、宴会場は客でいっぱいになった。
しかし、「婚礼の礼服を着ていない者」が一人居て、その者はつまみ出されています。
天の御国はすべての者に開かれているのです。
ただ、御国に入る為の‟ドレスコード”は必要なのです。