彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
詩編84:6
涙の谷・・・地名でもあるが、一般的には「人生の苦難」を意味します。
人それぞれ、人生には多くの涙の谷があります。誰もが通る道です。
しかし、主を信じる者は、涙の谷が泉が湧くところとなると書いてあります。
「初めの雨」というのは、荒野の情景を一変させる秋の雨のこと。
荒野のような苦難に満ちた人生であっても、
主の喜びが内側から溢れ、その人の霊が潤い大きな変化が与えられるのです。
自分の人生で誰もが涙の谷を経験し、言うならば「自分の人生の影の部分」
ある人は、ずっと自分の人生の影の部分を持ち続ける人もいます。
足に鎖が付いているかのように、、、
影の部分が付きまとい自分でその鎖を外すことが出来ないのです。
自分の行く所行く所、影の部分が付いてきます。涙の谷から脱出できないのです。
心の傷をずっと持ち続け、ずっと痛みをもちながらも、人は必死に生きようとします。
時に成功したり喜びを感じることもあるでしょうが、
足についた鎖は、直ぐに自分を闇の方に引っ張り込みます。
この鎖を外さない限り、傷や闇が、自分の心を腐敗させていきます。
私たちキリストに出会った人々はどうでしょうか?
多くの人が主を信じると信仰告白する時、救いを経験していませんか?
心の傷の癒しを体験したり、少なくとも主に出会って「人生の希望」を感じ
洗礼式を受けられたと思います。
私も、キリストに出会う前、自分の足に鎖が付いていました。
努力で成功し、これからは希望ある道を歩めると思っても束の間、
すぐに闇は私の足についた鎖を引っ張り、闇の中に私を閉じ込めました。
子どものころから毎日夢を見ました。
毎回大体のストーリーは同じでした。
夢の始まりはいつも、友達数人と楽しく遊んでいます。
「すごく楽しい!!」と思った瞬間、友達が私を殺そうとするのです。
私は驚き声を上げて逃げ回ります。追い詰められ「もうだめだ・・死ぬ・・」と
思った瞬間目が覚めます。
こういった夢を見ない日はない位、毎日夢をみました。
日々を重ねるにつれ、夢のスケールが段々と大きくなり、
数人の友達ではなく、町全体の人々が私を殺そうとしたり、
国から追われることもあり、またそれが他国からも追われる夢にまで発展しました。
いつも夢では楽しく過ごしており、「凄く楽しい!」と思った瞬間、
周りの人々が急変し、私を殺そうとするのです。
必死に逃げ回り「もうダメだ・・・」と思った瞬間に目が覚める・・・
こんな夢を10年以上みました。
もちろんこの間、体調もよくありませんでしたし、
無意識のうちに「私は喜んだらダメな人間!」
「最高に楽しい!なんて思うから闇に引きずり込まれる」と思っていました。
そんな中、キリストに出会って、
今まで自分の人生の影、涙の谷だと思っていた部分にスポットを当てられました。
私の足についていた鎖が外されたのを感じました。
洗礼を受けた後から、一度もこんな夢を見なくなりました。
悪夢からの解放だけでなく、
見事に自分の中にある涙の谷が「泉が湧く所」へと変えられました。
この世には、自分で足かせを外せず、鎖に繋がれたまま生きている人が多いと思います。
足かせを外せるのはイエスキリストだけです。
主の前にすすみ出て、自分の心を開放し、罪赦され癒しを受けなければなりません。
子どもの時に母親からこんな話を聞きました。
「人間の心には神様の形をした虚しさという空洞を持っている。
その空洞を埋めるのは同じ形をした神様しかできない。」
まだ心に涙の谷が残っておられる方、
主の前にすすみ出て心開き癒しを得られるますように・・・
1人でも多くの人にイエスキリストを伝え、
人々が主からの解放を得られますように・・・
涙の谷だと思っていた闇が、主に照らされ「泉が湧く所」と変えられますように。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
とあるように、
生ける水があなたの中で溢れ出て、あなたの体隅々まで駆け巡りますように。