ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。ルカ19:2-3
自分についてどう思いますか?
…自分をどう思うかと考える時、
自然と人と比べてしまうと思います。
私は今、次男の学校の改革について
学校側と話し合う時…
学校の管理職や学校の顧問弁護士たちと話す時、
目の前の人から、知識と言葉に圧力を感じるのです。
その度に「私は、どうしてもっと勉強しなかったんだろう…?
学生の時に、弁護士さんになるなんて考える事さえしなかったけれど、
今、自分が将来を考える年齢だったら、
弁護士になりたい…‼」と思うのです。
これは完全に、力でねじ伏せようとしている相手に、
こちらも力をもって戦かいたい!と言った思いなのです。
それを分かりながらも、自分の力量のなさに悔しく思うのです。
そんな事を考えながら…
私の頭の中に、木に登っているザアカイを思い出したのです。
「ザアカイか…
彼は、人に嫌われていたかもしれないけれど、
知識も権力も財力もあったよな~」と思ったのです。
そして「え‼」と思ったのです。
ザアカイが主に会えたのは、彼が木に登ったから。
どうして木に登ったのかというと
「背が低かった」と記録されています。
多分…彼の中で、自分の背の低さと言うのは、
財力や権力とは違い、コンプレックスだったのではないか?
「あ~もっと背が高かったらどれ程良かっただろうか?」と
何度も思ったのではないか?と想像したのです。
そう思うと、主はザアカイの強い面(権力財力など)を通してではなく、
弱い面、隠したい面を通して主が働かれたのです‼
「えぇぇぇ…‼」と思うと同時に、
モーセも、エジプトの王女の養子として
権力財力に満たされた時ではなく、
全てを失い、人に追われる身分となり、
40年間も荒野で羊飼いとして過ごし、年も80歳になり…
自分の人生はこのまま終わりを迎えるのではないか?と考えたと思うのです。
そのように、何も持つものがなくなった時、
主が語られ、モーセは遣わされたのです‼
「わー! モーセも! 凄い‼」と思った時、
ナアマン将軍を思い出しました…!
ナアマン将軍は王に重んじられていた存在。
彼も名誉も信頼も地位もある人物。
彼も、豊かな部分を通してではなく、ツァラアトと呼ばれる
不治の病と言われた病気を通して、主が働かれたのです。
周りの人に重んじられてきた彼にとって、
エリシャの対応は受け入れがたいもの。
そのように「あしらわれる存在」ではなかったのです。
そして、部下の前で肌を見せるという行為を選択したのです。
地位も名誉も権力もある人が、
病によって低くなられました。
もともと、良い人だったようですが、
一層、低くされ、弱い所に主が働かれたのです。
そう思うと「ふふふ…♫」と笑いが出てきました。
どちらかと言えば、
今までは「自分の弱さを強めて下さい」と言う祈り。
祈り方を変えよう‼
「神さま。私にはこのような弱さがあります。
私の弱い所に主が働いて下さい‼」
…そう思ったら、
今まで意識はしていなかったけれど
「弱い所を強めて欲しい…」と言う祈りは
どこかで「強くなって自分で何とかしよう」という
潜在意識があったかもしれません。
私は、自分の弱い所を認め、より一層、低くなるべき…
自分に弱い所があるという事は、
主が働いて下さる部分を持っていると言えるかもしれない!
わーーーー感謝‼
自分の弱さ、バンザイ!と思いました。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)