主を求めよ。お会いできる間に、近くおられるうちに、呼び求めよ。
イザヤ55:6
昨日、仕事に行きました。
すると何人かの看護師さんに
「LBさん(私のこと)Aさんが入院されていてますよ~」と教えてくれました。
何度も入退院を繰り返しているAさん。
そして、入院されると私に会いたがってくれます。
毎回、Aさんは体調が崩れても直ぐに病院には来ず、
ギリギリまで耐えて、息子さんが救急車を呼んで運ばれてきます。
経済的な問題で入院を避けているのではなさそう…
「どうしていつもギリギリまで耐えるの?」
「体調に異変を感じたら、早く来た方がいいよ」
「耐えても、結局は自分でどうする事もできないでしょ」
「我慢すれば、それだけ回復に時間かかるでしょ」
と話すのですが、
毎回、頑張られるのです。
そして長く入院生活を送る事になるのです💦
私たちって、頑張ってしまいます。
その姿は、信仰の中でもあります。
問題が生じ、悪戦苦闘するのです。
自分の頭で解決方法を色々と考えるのです。
そして色々な人に相談するのです。
そしてどうしようもなくなると…
「もう祈るしかない…」と思うのです。
このAさんのように、ギリギリまで自分で耐えようとするのです。
しかし、結局は耐えれない。
耐えた所で、自分への身体が一層復活するのに時間がかかる…
Aさんの姿を見て1つ思い出しました。
うちの長男次男が小学生の時、
宿題の問題が分からなくて、
親には聞かず、自分で頑張ろうとする…
悩んで、イライラしながら取り組み。
結局、そのまま提出し、やり直しとなる…
その結果に、一層イライラする…という事がありました。
助けを求めたら良いのに…
私たちには、自分で何とかしようとする
習性の様なものがあるのでしょうか。
私たちは、
小学生が、助けを求めずに、1人で宿題に向き合いイライラするのを見たら、
「聞けば良いのに…」と思います。
大人は解決方法を知っているのです。
主も、私たちを見てそう思われているかもしれません…
「私に聞けば良いのに…」
「私は全てを知っているのに…」
「私に解けない問題はないのに…」
…私は、主は目に見る事が出来ず、言葉を耳で聞くことが出来ないから、
自分の問題を主に祈り求めると言う事が、最後になると思っていました。
でも、もしかしたら、
理由はそれだけではなく、
本能的に「自分で何とかしたい!」という思いがあるんだと思いました。
「自分で解決したい!」
「自分で出来る!」
これは、私たちの中にある「高慢」な部分だと思います。
自分の中の高慢が、主を遠ざけている様に感じました。
主と距離が近い人と、主と距離が遠い人の違いは、
自分の中にある「高慢」の差かもしれません…
心底「自分では何一つ出来ない…」と痛感していれば、
直ぐに主に依り頼めると思うのです。
私に必要なもの… へりくだり…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)