自分の中にいるパリサイ人【ルカ6:6-11】

2024年

別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。
そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。

ルカ6:6-11

今日の聖書の箇所を見て、思い出した事があります。

5年程前に、夫が目の前で痙攣を起こし気絶して倒れたことがありました。

慌てて救急車を呼び病院へ。

お医者さんは「脳に何か異常があるのは確かなのですが、それが何かが分からないのです」と言われ、

搬送されてから3日間、原因が分からずにいました。

そして凄く珍しい病気だと分かったのです。

救急車で運ばれた病院は幸いにも、脳外科で有名な所でした。

1カ月程入院し、無事に退院する事が出来ました。

それから今まで病院に通い、定期的な検査と薬の服用が続いています。

倒れてから半年ぐらいして、担当医の先生が転勤で違う病院へ行かれるとの事で、

最後の検診の時に挨拶をしてくれました。

「本当はあの時、亡くなっていてもおかしくなかったんですよ。僕はこの病気にかかった人を初めて担当したのです。

実は病院中で大騒ぎになって、脳外科の先生全員が集まったのですが、誰も治療経験がなく、皆であなたを助けようと必死でした。

だから、もう大丈夫だとか考えずに、これからも通院は絶対に続けて下さい。」と言われました。

そして次の検診の時は、担当医が変わっていました。

「あ! 私はあなたを知っていますよ。救急車で運ばれた時、誰があなたを担当するかと言う話になって、私を含め、他の先生方も担当したがっていたんですよ。

結局は、〇〇先生が担当医になられたんですけど…

僕が担当したかったです(笑)

僕も他の先生方も経験なかったので…(笑)

お元気になられて良かったですね」と言われました。

診察が終わり、帰り道、夫は少し不機嫌でした。

「この病院に運ばれて、助けてもらったのはありがたいと思ってるけど。

皆が担当したがるってどういう意味?」と言いました。

…確かに…

簡単に言えば、

担当医として手術という治療をして経験を積みたい。という思いがあるように感じました。

そして担当医だった先生が「みんなであなたを助けようと必死だった」と言う言葉が、

「成功例を出せた」と感じてしまったのです。

でも新しい担当医の言葉も、夫が元気に回復しているから言える事であって、

先生が経験を積むのも、これから先に役に立つ事だから…と言って話を終えた事を思い出したのです。

もちろん、先生方には感謝しており、今もこの病院に定期的にお世話になっています。

今日の御言葉を読み、

少しこの時の経験と重なったものを感じたのです。

イエスさまが安息日に癒しを行なうかどうか、

律法学者やパリサイ人が集まりじっと見ていたのです。

片手のなえた人はイエスさまに出会い、周りにはその様子を見守る人たちがいたのです。

どの様な思いで見ていたのでしょうか。

片手の萎えた人を心配して見守っていたのでしょうか。

イエスさまが安息日を守るかどうか、訴えれるかどうか、その機会を待っていたのです。

誰一人として、片手の萎えた人を、思いやる心を持っていなかったのです。

今までこの人がどの様な思いで生きて来ただろうか。

片手が使えない事で、生きていく事に不便を感じたり、仕事も出来なかったり、バカにされたりしなかっただろうか…

と言うような事を、想像する人は居なかったのです。

彼の心に寄り添った人は、イエスさま、たった一人だったのです。

…私たちにもこのような思いが、知らず知らずとあるように思いました。

人の立場に立たず、自分視点(自分の価値観や関心)で物事を見てしまう…

決して、意識的にその様に人を見る事はなかったとしても、

無意識近い状態であったとしても

「この人は、これでも本当にクリスチャンなんだろうか」

「こんな事を言うなんて、クリスチャンとは言えないのではないか」と言った目です。

もしかしたら、凄く大きな、まだ癒えていない心の傷があり、棘のある態度や言葉を発してしまっているのかもしれません。

しかし、その心に寄り添う事より、

口や態度からでた言葉や行動に目が行き、いとも簡単に批判的な判断をしてしまうのです。

…当時このような病気の人は、神の罰を受けた人と言われ、軽んじられていたようです。

そして、会堂に入っても肩身狭く隅っこにいたようです。

イエスさまは、片手の萎えた人を会堂の中央に呼び出されたと書かれています。

イエスさまの目は、社会的に立派な人ではなく、この様な弱い立場の人にフォーカスしているのです。

このような人にこそ恵みを与えたいと思っておられることを示されたのです。

イエスさまが見るように、私たちも世の中を見る事が出来ますように。

イエスさまが愛するように、私たちも隣人を愛することが出来ますように。

また、人からこのような目で見られ、傷つけられても、

主だけは私に寄り添って下さる方であるという事を、

思い出す事ができますように!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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