人生を変えるために必要なこと【使徒9:17-20】

2024年

そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、

食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。

そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。

使徒9:17-20

何か自分の道が塞がれた時、

私たちは直ぐに頭の中で「これは何かの罰ではないか?」と考えてしまいます。

自分が良くない事をしたから?

正しくない事をしたから?

主に伺うことなく、好き勝手な道を歩んでいるから…?

主が怒っておられるのではないか…?

神の懲らしめ、罰ではないか…?

とドキッとします。

私たちは知らずと間違った歩みや選択をする事があります。

パウロもそうでした。

パウロはエルサレムのキリスト教徒に対して強い抑圧を行っていました。

彼はキリスト教を異端と見なしていたのです。

キリスト教徒を迫害し、暴力や脅迫、襲撃などを行い、牢獄に入れていました。

パウロは、自分はユダヤ教徒として正しい道を歩んでいると信じていたのです。

そのような彼に、主が語られたのです。

ダマスコに向かう道中、天からの光が射し、

主に出会ったのです。

そしてパウロの人生は180度変わり、

命をかけて主を証しする者へと変えられました。

パウロは自分の事を「罪人の頭」と言っています。

キリスト教の「罪」とは、「悪い事をする」と言う意味より

「的外れ」だと言われています。

的外れとは、神の道から外れているという意味だと思います。

主の計画や、御心から離れ、生きている状態…が「罪」なのです。

パウロも、自分は正しい道を全速力で歩んでいると思っていましたが、

的が外れていたのです。

向かう方向が違ったのです。

そして、主に出会い、主が正しい道を示されたのです。

この時、主はパウロに対して「いい加減にしろ!!」と、

罰をあたえようと目を見えなくしたのではないのです。

「あなたが信じて歩んでいる道は、迫害の道だ。

あなたがするべき事がある。立ち上がり町に入りなさい。」と言われたのです。

結局は、パウロは偉大な人物に生まれ変わりました。

パウロは、ユダヤ人や異邦人の間でのキリスト教の普及に大きく貢献しました。

パウロが書いた手紙は、新約聖書の中で約半数あるのです。

パウロは、キリスト教の信仰や教義を解説し、各地の教会に指導や励ましを与えた人物なのです。

パウロは…

どうしてこのように生まれ変わる事が出来たのでしょうか。

パウロは、自分の間違いに気付いたのです。

「なぜわたしを迫害するのか」と言われ、自分が正しいと思っていたことが「迫害」であったと気付いたのです。

パウロは3日間、暗闇の中で、一切の飲食も絶って、彼は自分に起こったことを考え巡らし、祈っていたのです。

そして3日目に、アナニヤがパウロの頭に手をおいて祈った時、

目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになったのです。

肉体的視力の回復と言う意味だけでなく、霊的な目が開かれたのです。

目が見えるようになったパウロは、立ち上がりバプテスマを受け、

食事をし、数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいました。

そしてただちに、諸会堂で「イエスは神の子である」と宣べ伝え始めたのです。

パウロに対して反発を覚えていたアナニヤに対して、

主は、パウロの事を「私の選びの器」と言われました。

パウロは、「迫害者」から「神の選ばれた器」へと変えられたのです。

パウロから学ぶ事は何でしょうか。

パウロが劇的に変えられた理由は、

まず自分の過ちに気付いたのです。

そして立ち止まり、1人祈ったのです。

そして迫害の道を離れ、方向転換し、主の道を歩み始めたのです。

良い方向に人生を変えるために必要な事は、

「神の恵み(祝福)」と「自分の行動(決断)」だと思います。

主の恵みだけではダメなのです。

主が力ずくで私たちの人生を変えようとはされないのです。

主の恵みに私が応答する時に、人生が変わるのです…

パウロは主が間違いを指摘してくれ、それに耳を傾け、

悔い改めたのです。

「悔い改める」とは、単なる「後悔」ではなく、

今ある所から「向きを変える(ヨエル2:13)」

「心を変える(使徒3:19)」という事。

私も、日々立ち止まり、主に伺い、主の道を歩む者となりたいです。

道が塞がれた時、

主が語っておられるんだと思います。

人を迫害し、暴力や脅迫、襲撃していたパウロでさえ、

主は罰を与え彼を止めなかったのです。

パウロの道が閉ざされたのは、主の愛です。

主は愛のお方であって、罰を与える方ではないのです。

私も、自分が進もうとする道が塞がれた時、立ち止まり、

「主よ。あなたの御心と、私の進む道を教えて下さい」と祈り、

直ぐに方向転換が出来る者になりたいです。

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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