神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者の書3:11
今日、仕事の帰りに電車に乗りました。
私の前には外国人旅行者の家族が座っていました。
中学生ぐらいのお兄ちゃんと、4-5歳ぐらいの妹ちゃん。
4人家族のようでした。
そして、どうやら妹ちゃんが電車の切符を持ちたそう。
お兄ちゃんの手には自分の切符があり、妹ちゃんにはない。
幼児である妹ちゃんには、切符の購入は必要ないのです。
しかし、自分には必要がない切符が羨ましい様子。
そして両親は、持たせないと言っている様子。
妹ちゃんはずっとねだるのです。
そして両親は「落とすから」ダメだと言っている様子。
多分、何処の国の親も同じだなんだと思いながら、
その子どもの姿を見ながら、クスっと笑えました。
私がクスっと笑った姿を、外国人のお母さんが見ました。
そしてお母さんも私に笑い返すのです。
結局は、両親は妹ちゃんに切符を持たせました。
満足げな妹ちゃん。
そして私は電車に揺られウトウトしていると、下車駅に到着。
ふと見ると、前にその家族の姿はなく、下には切符が落ちていたのです。
「え…落ちてる…」と思い、
もしかして、同じ駅で降りていないか、切符を拾い、電車の外に出ると、
少し前方にその家族を発見!
急いで追いかけ、切符を渡しました。
するとお母さんが、私を見て以前にまして笑っていました。
持ちたい子どもと、落とす心配をする親。
そして、かなりの確率で落としてしまう結末。
お兄ちゃんや両親、沢山の乗客が持っている切符を、持ちたい…
自分も改札機に通してみたい…と思うのです。
本当に本当に、切符が欲しいのです。
カッコよく見え、楽しそうに見える魅力的な切符。
しかし、妹ちゃんは、切符を持つには幼すぎるのです。
欲しいものを手にして、満足をするけれど、
それを管理する能力がないのです。
その価値を知らないのです。
紛失した時に、どのような事になるのか想像出来ないのです。
まるで、自分のようです。
主に、欲しいもの、こうなって欲しいとねだるのです。
そして、どうしてそれが必要なのか、必死に説明するのです。
だから、絶対に必要だと、訴えるのです。
主がそれに答えられないのは、私がまだ時期尚早なのかもしれない…
それを管理し、本当に使いこなせるに至っていないのかもしれない。
もしくは、自分には必要がないのに、
人のものを羨ましく思っているのかもしれない。
そんな事を考えながら、主の側に立って考えて見ました。
「あれ、欲しがってるけれど…違うんだよな~」
「立派な理由を並べて欲しいという思いを正当化しているけど…気付いて欲しいな~」と
思われているんだろうか。
反対に、私から願ってではなく、
主からずっと与えたいと思っているけれど、
今の私には時期尚早で、渡せずに待っているものってあるんだろうか。
でも私は全く気付いていないもの…
あるかもしれない…
主は、私に与えようと準備し、タイミングを待っているもの。
その時に、昨日ブログに書いたヨセフを思い出しました。
ヨセフは将来どのような地位に着くか分からず、
不安しかない状態で奴隷となりました。
しかし、その奴隷生活のなかで主の訓練があり
見事に、ヨセフは用いられたのです。
奴隷になる前に、
あなたはエジプトの地に行って、凄く苦労するだろうけど、
これから起こる大飢きんに備える舵取りをする為にエジプトへ行きなさい!と言われたら、
「そんなの無理です!!」というと思います。
そんな国の一大事に関わるなんて、しかも外国。
そんなの怖すぎる…
奴隷というのは、兄たちに強いられてなりましたが、
主はその良くない出来事を用いられたのです。
ヨセフを総理大臣に立たせるという決断力や能力、勇気などは、
主が与えられるタイミングがあるのです。
奴隷になる前には与えれない。
奴隷として売られた時でもなく、
ポティファルの妻に陥れられ、牢獄された時でもなく、
牢獄で料理長の夢を解き明かした時でもなかったのです。
夢の解き明かしから2年後が、その時だったのです!!
初めからは与えられない…
主の時が来るまで、与えられないのです。
責任をもって切符を持たせる時があるように…
主にも与える時があるし、与えようと準備されている時がある。
その為にも…今、置かれた中で、懸命に信仰をもって日々歩もう!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)