神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。Ⅰコリント1:9-10
今朝、道を歩いていると、前方に小学生たちが集まっているのが見えました。
集団登校しようと集まっていたようです。
今は、ランドセルの色は豊富にあり、男の子の色、女の子の色がなくなってきました。
色々な色のランドセルを背負っている子どもたち。
その中で1人だけ、
あれ?なんかランドセルがキレイじゃない…
何色だろう… まだらな色な感じがする…と思ったのです。
それを遠目で見ながら、そのまだらなランドセルの子が気になりました。
4年生ぐらいの女の子なのですが、
遠目でみながら「あの子のランドセルは何色なんだろう…」と思いつつ歩いていました。
まだらな色のランドセルってみた事ない…
段々とその集団に近付くにつれ、
分かったのです。
ランドセルにビニールのカバーを付けていたのです。
そしてそのカバーが劣化して、透明感を無くした状態だったのです。
小学生の集団を通り過ぎる時、
私が気になっていた女の子のランドセルが
赤とピンクを混ぜたような色、秋桜色(こすもすいろ)だと分かりました。
えーー凄く可愛い色のランドセル!と思い、
私の疑問が解決され、通り過ぎながらこんな思いが起こりました。
カバーが残念だな…
カバー取ったらいいのにな~と(お節介ですね)
あのカバーを取るのはいつだろう…
もしかしたら6年生になって卒業してから?
だとしたら残念…
あんなに可愛いランドセルなのに…
卒業と共にランドセルから卒業した時にカバーを外し
「綺麗な状態でランドセルを6年使えた!」と思うのかな…
そうだとしたら、ちょっと残念だな~
小学生の時にしかランドセルは使えないのに…
今、可愛く使った方が、もっと良いのにな~
でも綺麗な状態で使いたい! 大切に傷など付けたくない!と思う心が強く、カバーを付けたんだろうし…
と、お節介な事を思ったのです。
その時「あなたはどう?」と言う思いが心に響きました。
私?
私はどう…? 何が…? 信仰…?
毎日聖書を読み、祈りの時間を持ち、良いクリスチャンになろう。
クリスチャンらしく生きよう!と思っても…
ランドセルにカバーをするように、信仰を隠していないかって事?
コソッと教会に通い、コソッと祈り…
主を体験したとしても…
誰とも分かち合わず、自分の中でだけで満足し信仰を完結させていたら… どうだろう…
「私はランドセルを綺麗な状態で保ててる!」と言うように。
カバーの下は、傷1つない綺麗なランドセルだとしても、
傍から見る私の目には、何か変なランドセルで、綺麗だとは全く感じなかったのです。
しかし、本人にとっては誰よりも綺麗なランドセルなのです。
という事は、
周りはどう思おうと関係なく、
自分の中では満足している自己満足に近いのかもしれません。
信仰がそうだとすれば、残念です。
自分の中では満たされていても、
それが他の人に何の影響も起きなければ… 残念です。
主は、私たちに自分の中だけで満たされ、満足して生きて行く事を望まれていない…
主は、私たちが恵みを分かち合い、
主が自分を愛して下さったように、互いに愛し合う関係を望まれているから。
互いに分かち合う事により、
互いが体験した主の側面を知ることができます。
という事は、自分の知らない主を知ることができるのです。
分かち合うという事は、福音を知らない人に、福音が届くのです。
自分の中だけで完結してはいけない…
今、聖書を読み、祈り、主を知っていき、
恵みを分かち合える状態というのは、
命ある今だけ。この地上だけなのです。
天の御国に行ってからは、
多分… 今とは違う状態。
聖書を読んで、伝道して…という事はない可能性が高いと思います。
ランドセルを楽しめるのは、小学生の時だけ。と言うのと同じで、
主を分かち合い、恵みを楽しめるのは、
今だけなんだ… と考えさせれました。
今だけ体験できる祝福を、今楽しみたい!
この世を去る時に、自己満足だったと後悔しないようにしたいです。