自己満足な信仰生活かも…【Ⅰコリント1:9-10】

2024年

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

Ⅰコリント1:9-10

今朝、道を歩いていると、前方に小学生たちが集まっているのが見えました。

集団登校しようと集まっていたようです。

今は、ランドセルの色は豊富にあり、男の子の色、女の子の色がなくなってきました。

色々な色のランドセルを背負っている子どもたち。

その中で1人だけ、

あれ?なんかランドセルがキレイじゃない…

何色だろう… まだらな色な感じがする…と思ったのです。

それを遠目で見ながら、そのまだらなランドセルの子が気になりました。

4年生ぐらいの女の子なのですが、

遠目でみながら「あの子のランドセルは何色なんだろう…」と思いつつ歩いていました。

まだらな色のランドセルってみた事ない…

段々とその集団に近付くにつれ、

分かったのです。

ランドセルにビニールのカバーを付けていたのです。

そしてそのカバーが劣化して、透明感を無くした状態だったのです。

小学生の集団を通り過ぎる時、

私が気になっていた女の子のランドセルが

赤とピンクを混ぜたような色、秋桜色(こすもすいろ)だと分かりました。

えーー凄く可愛い色のランドセル!と思い、

私の疑問が解決され、通り過ぎながらこんな思いが起こりました。

カバーが残念だな…

カバー取ったらいいのにな~と(お節介ですね)

あのカバーを取るのはいつだろう…

もしかしたら6年生になって卒業してから?

だとしたら残念…

あんなに可愛いランドセルなのに…

卒業と共にランドセルから卒業した時にカバーを外し

「綺麗な状態でランドセルを6年使えた!」と思うのかな…

そうだとしたら、ちょっと残念だな~

小学生の時にしかランドセルは使えないのに…

今、可愛く使った方が、もっと良いのにな~

でも綺麗な状態で使いたい! 大切に傷など付けたくない!と思う心が強く、カバーを付けたんだろうし…

と、お節介な事を思ったのです。

その時「あなたはどう?」と言う思いが心に響きました。

私?

私はどう…? 何が…? 信仰…?

毎日聖書を読み、祈りの時間を持ち、良いクリスチャンになろう。

クリスチャンらしく生きよう!と思っても…

ランドセルにカバーをするように、信仰を隠していないかって事?

コソッと教会に通い、コソッと祈り…

主を体験したとしても…

誰とも分かち合わず、自分の中でだけで満足し信仰を完結させていたら… どうだろう…

「私はランドセルを綺麗な状態で保ててる!」と言うように。

カバーの下は、傷1つない綺麗なランドセルだとしても、

傍から見る私の目には、何か変なランドセルで、綺麗だとは全く感じなかったのです。

しかし、本人にとっては誰よりも綺麗なランドセルなのです。

という事は、

周りはどう思おうと関係なく、

自分の中では満足している自己満足に近いのかもしれません。

信仰がそうだとすれば、残念です。

自分の中では満たされていても、

それが他の人に何の影響も起きなければ… 残念です。

主は、私たちに自分の中だけで満たされ、満足して生きて行く事を望まれていない…

主は、私たちが恵みを分かち合い、

主が自分を愛して下さったように、互いに愛し合う関係を望まれているから。

互いに分かち合う事により、

互いが体験した主の側面を知ることができます。

という事は、自分の知らない主を知ることができるのです。

分かち合うという事は、福音を知らない人に、福音が届くのです。

自分の中だけで完結してはいけない…

今、聖書を読み、祈り、主を知っていき、

恵みを分かち合える状態というのは、

命ある今だけ。この地上だけなのです。

天の御国に行ってからは、

多分… 今とは違う状態。

聖書を読んで、伝道して…という事はない可能性が高いと思います。

ランドセルを楽しめるのは、小学生の時だけ。と言うのと同じで、

主を分かち合い、恵みを楽しめるのは、

今だけなんだ… と考えさせれました。

今だけ体験できる祝福を、今楽しみたい!

この世を去る時に、自己満足だったと後悔しないようにしたいです。

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