主が沈黙される意味【詩篇22:1-10】

2024年

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
わが神、昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

詩篇22:1-10

ある日突然、苦しい中を通らされる事ってあります…

今日は、ダビデが書いた御言葉…

ダビデは主が選んだイスラエルの王です。

主が祝福をされた選ばれた器です。

ダビデは主に従い生きて来ました。

しかし、自分の自我や欲とは関係なく、他人(サウル)の自我や欲によって窮地に立たされたのです。

(この部分を見ても、自分に降りかかる困難は、自分の罪から来る罰ではない事が分かります。)

命を狙われ、サウルの軍隊に追われる身となりました。

その時のダビデの心境が今日の御言葉です。

これは、イエスさまが十字架の上で話された言葉と同じです。

主に見捨てられたと感じたのです。

こんなにも苦しく助けを一日中求めているのに、主が沈黙されているのです。

主は、私たちが苦しくもがいていても、沈黙される事が多いように思います。

どうしてなんだろう…

ダビデは精神的に限界に立たされているのに。

イスラエルの民が、エジプトの兵に追われ、民が進める方向は海しかなかった時、

主は海を二つに割り民を助けました。

民が限界を感じた時、奇跡を通して主が動かれ、民を助けたのです。

人が限界を感じた時、主は手を伸ばされ働かれる事があります。

しかし、限界を感じているのに沈黙される事もあるのです…💦

どうしてなんだろう…と黙想しました。

そして、私なりの答えとして、感じる事がありました。

今の自分は今日造られたものではない…という事です。

今の私は、信仰を持った24歳の時より、キリスト者として少しずつ、私なりに信仰が成長していると思います。

それは、今日突然成長した訳ではありません。

24歳から今まで、色々な事がありました。嬉しい事もありましたが辛く苦しいことも多くありました。

人生に沢山の選択があったのです。

韓国に留学に行くかどうかは凄く迷いました。

主に示されているのは凄く感じていたのですが、本当に行くのか、27歳にして結婚を考えても良い年に、

この先、何年留学するかも分からず、行ってしまって良いのか。

韓国は反日感情があります。その国に行くのか。

私が行かないという選択をしても、誰にも何も言われないのです。

主と私だけが知る話だったからです。

主に道を示されたとしても、行くかどうか、従うかどうか、私の自由なのです。

結果的に、この韓国留学は苦しい時間を過ごしましたが、私の信仰に凄く影響を受けました。

今振り返って見て、行かなかったら私の信仰(人生)はどうなっていただろう…と思います。

また、自分の人生を振り返って見て、

私は中学に上がると同時に体調が悪くなり、高校2年の終わりまで病院通いが続き、家でも寝て過ごす事が多かったのです。

私は、体調が癒され始めた時に勉強をしようと思っても、

小学校を卒業し勉強をせず過ごした事もあり、

漢字は読めず、文章も読解する力が全くなかったのです。

塾に行ってもついて行く事が出来ないので、

学校の先生に頼み勉強を教えてもらいました。

教科書の文章が理解できない水準でした。

先生は「朝日新聞の天声人語の要約」を毎日しなさいと言われ、

毎日先生に要約文を提出し、全く読解力のない私に一つ一つ説明して下さいました。

この訓練を通して、文章を理解する。また文章を書くという事を学ぶ事が出来ました。

また、私が体調を崩し勉強する機会を失い、日々家で寝て過ごした時に、

私は物事を凄く考える習慣が付きました。

この5年間がなかったら、私はもっと考えずに行動する人として大人になっていたのではないかと思いますし、

この先生の訓練を受けることも出来なかったはずです。

私が体調を崩すというのが、主の御心だったのか、もしは悪しきものの妨害だったのかは分かりませんが、

どちらにしろ主は「益」として下さっているのです。

また、次男が小学生の時に私は小学校のPTAの会長をしたことがあります。

学校には、在日の人、韓国から仕事で来ている人、日本人、その他の外国人の保護者がいます。

小学校は保護者が参加する行事が多く、保護者の考え方もバラバラな環境で凄く大変でした。

しかし、その中で人と接する事、人に仕える事。人をまとめていくこと。協力してもらうこと。自分の味方になってもらう事。などなど沢山の事を学びました。

他にも、自分の信仰にプラスとなった出来事が沢山ある事に気付きました。

今ある自分は、過去の選択の一つ一つで出来ているのです。

勉強できなかった事を言い訳に、ずっと勉強しないという選択肢もありました。

勉強せず進学するという方法もあります。

小学校の会長も別に頑なに「会長はしない」言えば、せずにも過ごせたのです。

しかし今思えば、この1つ1つが今の自分を造り上げていっているのです。

何を言いたいかと言えば、

主が沈黙されるのは、その期間を沈黙の中で過ごす必要があるからだと思います。

こんなにも限界な状態に立たされているのに…

主が助けられないのは、

この状態で私が何を選択するかを主が待たれているのです。

このような沈黙の中でも、主を選択するのか。

それとも主に不信仰を抱くのか…

主は私の選択を待たれているのです。

この極限の中で「主を選択する」という選択を通し、時間の経過と共に主が介入された時、

「主を選択して良かった」という確信が、自分の信仰にプラスになるのです。

沈黙の中での選択を主が待たれており、またその選択をする必要性があるから主が沈黙されるのです。

ダビデは主の沈黙の中、主を信頼する事を選択しました。

過去の主がされた主の御業を思い浮かべ、信頼を選択したのです。

そしてこの選択は、ダビデをイスラエルの良き王として成長させたのです。

主に祈っても答えがないのは…

主が待っておられるのです。

私たちが信仰を選択するかどうか。

良いものを選択するかどうか。

選択したものが積み重なり、私たちの信仰を造り上げていくのです…

私たちは、今日も主を選択しましょう!!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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