イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。
彼らは、イエスの口から出ることに、いいがかりをつけようと、ひそかに計った。ルカ11:53-54
今日の御言葉は、
あるパリサイ人がイエスさまを食事に招待しました。
パリサイ人は、イエスさまが食事の前に “清めの洗い” をしないのを見て、驚きました。
それを感じたイエスさまは、
「あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとってきよいものとなります。」
と言われました。
そして続けて、パリサイ人や律法学者谷に対して、咎(とが)めることを何度も言われた時の御言葉です。
聖書で見る、パリサイ人や律法学者。
新約聖書に何度も出てきます。
しかも彼らの信仰は褒められる対象ではなく、咎めを受ける対象として何度も記録されているのです。
彼らが褒められたりする場所はないのか…と思い、ザっと調べたのですが、
なさそうです💦
彼らはどうして聖書に何度も記録されているんだろう。
主が私たちに何を教えるために、記録されているんだろう。
簡単に言えば「信仰は形式的なものではいけない」という事だと思います。
礼拝を「守っていればOK」ではなく、
什一献金も「すればOK」ではない…
それだけを教えるために、こんなに何度も登場しているんだろうか…
私たちの信仰にも、彼らのような部分を持っているからこそ、
それを悟るために記載されてるはず…ということを黙想…
彼らは、律法を学び「知っている」と思っていたのです。
単に知っているのではなく「専門的に知っている」「完璧に知っている」「抜け目なく知っている」と。
私たちは、信仰生活をおくる中で試練に遭う事が多くあります。
その苦しい道を祈りながら通り、主の時が満ち、問題が解決し、
振り返ってみれば、主の導きを感じ、主の計画を感じたりするのです。
試練は、主を感じるチャンスでもあり、
主が私たちに何かを教えたいという大きな意味もあります。
試練の道を通り抜け、試練に出会う前とその後では、信仰に大きな違いがあります。
試練を通して主を知るのです。
主は本当に素晴らしい…と感動するのです。
自分の知らなかった主というお方を知ることになります。
このように、試練を通して階段を上がるように信仰がステップupするのです。
しかし…
私たちは、主をどれ程知ることが出来るでしょうか。
主が100なら、私が知っている主は「1未満」です。
何度も何度も試練を通して、主を知る喜びを何度も経験したとしても…
「1未満」です。
しかし、試練を何度も通り、何段か階段を上った人は、
自分より低い位置にいるクリスチャンをみて
「その信仰どうなの…?」「まだまだだな…」「まだ信仰が幼い…」と思ってしまうのです。
確かに…
試練を通して主を知っていく事は素晴らしい事ですし、
試練前とその後では、大きな違いがあります!
自分の中では、凄く大きな信仰のステップupです!
しかし、それは文字通り「自分の中」での話。
信仰の階段をあがったとて… 階段は100段ではない…(と思う)
これは試練だけでなく、
信仰書や聖書勉強、神学など、学びを通しても同じだと思います。
私たちは、直ぐにパリサイ人になってしまうのです。
もともと私たちは、高慢になりやすい…
と考えていると、この御言葉を思い出しました。
『人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。』(Ⅰコリント8:2)
このような御言葉があるなんて…
主は、本当に人間のことをよくご存じ。
主が私たちに望まれている姿は、高慢ではなく、
『深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け、互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、主があなたを許したように、互いに赦し合う。そして、これらすべての上に、愛を着ける。』(コロサイ3:12-14)
主を知っていくという事は、
まだまだ自分は、主を知らないという事に気付くという事。
そして… もっと謙遜になるべきだと気付く事。
自分の中で主を知る度に、謙遜になれますように…
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」