しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。Ⅱペテロ3:8-9
先日、ある姉妹の証を聞きました。
私が姉妹と知り合ったのは、私がクリスチャンになる前。
ですから、今回聞いた証は、私が知らない彼女の求道中の話だったのです。
ここに載せ分かち合えないのが残念なのですが、
25分の証。私は3回続けて聞き号泣しました。
教会に導かれ、植物が育つように信仰がスクスクと育てば良いのですが、
信仰生活も、雨が降り、風が吹き、時には台風に見舞われたりするのです。
そして、今までに経験した事がない、満たされた時間を過ごす時もあります。
かと思えば、喜びが溢れるような思いがピタッと止まり、主が遠く感じ「主の不在感」を感じる時もあるのです。
証を聞きながらその様な事を考えていると、
モーセを思い出しました。
モーセも生まれた時は、エジプトのファラオ王が、ヘブライ人の男の子を殺すように命じた時です。
しかし、不思議な方法でモーセは生き延びただけでなく、実の母親に育ててもらう事が出来たのです。
そればかりか、エジプトの最高の教育を受け、豊かに成長したのです。
40歳の時に、同胞がエジプト人に打たれるのを見て、モーセはそのエジプト人を殺してしまいました。
そしてモーセはエジプトでの生活を捨て、ミデアンの地に逃げたのです。
エジプトでは最高の水準の生活を40年過ごし、一回の殺人を通して、モーセはミデアンの地で40年、身を隠して生活したのです。
ミデアンの地とは「荒野」です。
一番さげすまされている「羊飼い」という職業を40年間余儀なくされたのです。
モーセは、同胞の打たれる姿を見て立ち上がったのです。
モーセは自分だけの身の安全だけを望むのではなく、同胞を哀れみ助けようとする思いが湧き起こったのです。
しかし、殺人という大きな罪を犯してしまい、逃亡生活を余儀なくされたのです。
モーセは40年間、何を考え生きたのでしょうか。
モーセに希望はあったでしょうか。
主はこのモーセの失敗を通して、モーセは主が用いられる姿に変えられたのです。
モーセの何でもできるという高慢な思いを、粉々に砕かれたのです。
主は、80歳になったモーセに「あなたを遣わそう」と語られたのです。
そして ‟出エジプト” という偉大な歴史に残る働きをしたのです。
生まれた時から、モーセには何か特別な主の計画がある…と誰もが聖書を読み、そう感じると思います。
しかし、主はモーセが順調に霊肉共に成長し、‟出エジプト”のリーダーとしての器を徐々に備え、用いるという事をされなかったのです。
モーセは40歳にして、持っていたものを全て失うという時間を過ごしました。
プラス、プラス、プラス、と徐々に信仰や人格が備えられ導かれるのではなく、
モーセが生まれた時は、主に守られプラスだったものが、一度の失敗によりモーセはゼロを通り抜け、マイナスになったように感じます。
モーセの人生は、プラス、マイナス、プラス…
…私たちの信仰生活も同じように思うのです。
上がったり下がったり。
主に満たされた日々を過ごす事もあれば、主を遠くに感じる日々もあるのです。
昔、この様な話を聞いた事があります。
『クリスチャンは、人生が自分が思い描くような人生を、簡単には進んで行かないという事を知っていなければならない。
私たちを導く聖霊さまの働きは、私たちの感覚には、時には遅れたり後退したように感じる事がある。
信仰は弓矢のよう。
弓矢は、後ろに引かなければ、前へは飛ばない。
後ろに引けば引く程、遠くに飛ぶ。
主の導きも弓矢のような性質がある。
私たちクリスチャンは、この法則を知らないといけない。』
このような内容です。
主を遠くに感じる時…
思い通りに事が進まない時…
主が祈りに答えて下さらない時…
主が弓を後ろに引っ張っているのかもしれません。
引っ張られれば引っ張られる程、遠くへ飛ぶ…
主が引っ張られている時、私たちの目にはマイナスに感じてしまうのです。
私たちに出来る事は、どの様な時も、主を信じ主が必ず答えて下さると信じて待つ事。
姉妹の証を聞いて、
主は弓を引かれる時もある。
私たちは、主に待たされている様に感じるが、
主も、私たちが整うのを待って下さっているのです。
今日も主を見上げ、今日も主を選択し、信じて歩みましょう!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」