神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。詩篇46:1-2
昨日のブログでこの様な事を書きました。
『私たちは何か困難にぶち当たった時、悲しみに陥った時、理不尽な思いに苛まれた時、孤独に追いやられた時…
「神はいるのだろうか…」という疑問を持ちます。
戦争が起きると、災害が起こると、
「神がいるなら、どうして…」という疑問が生じるのです。
人間は、飛びあがるほどの良い事が起きても、神を思い出しませんが
嫌な事、起こって欲しくない事が起こった時、
私たちの思考は「神がいるなら…」となるようです。』
この様に文章にすると、人間は本当に自分勝手な存在です。
しかし、裏を返せば、
本当に辛く、受け取りがたい現実が目の前にやって来た時、
「神さまがいてくれたら…」という思いが生じているもかも…と思いました。
自分では解決する事ができなく、人間の限界を感じた時、
その様な時に、クリスチャンであってもなくても、この様な同じような思いになる…
こんな時にこそ、助けて欲しい。
そのような私たちの叫びのように思います。
普段、何も起こらない日常では自分で道を切り開き、生きていけると思っていても、
何か途轍もない事が起こった時、自分の弱さが浮き彫りになるのです。
世の中には理不尽な事が多く起きます。
生まれながらに重い障害や病を患っている方々がおられ、
幼い子どもの命が理不尽にも奪われる事もあり、
真面目に正直に生きている人の努力が報われず、悪い事をしている人が成功しているように私たちの目に写る事もあるのです…
秩序もなく、理不尽な事が起きる世界。
今日の御言葉は、ダビデは「われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」と言っています。
山々が海に移ろうとも…
山とは不変のもの、変わらずそこに存在するもの。それが海に移る…そんな事はありえません。
山が海に移るような、絶対にありえない事が起こっても。
考えもつかない事が起こっても。
という意味だと思います。
そのような私たちに理解できない事が起きても、私たちはその意味が分からないのです。
主に「どうしてですか」と祈っても、沈黙される事が多い…
その様な出来事が、何処から来るのか、私たちは分かりません。
主が起こされているのか、悪なる存在が起こしているのか。
もしくは、地球温暖化のように、人間が引き起こしている場合もあると思います。
分かっている事は、
何が起ころうとも、それが誰が引き金で起こっていたとしても、
主は存在されており、私たちの避け処となって下さるという事です。
無秩序で理不尽で混沌とした状況の中からも、新しい事を始めて下さる主が居られるという事です。
良い業を始めて下さる主が共にいて下さる。
だからダビデは、
地が姿を変えて、山が海に移るような苦難が襲って来ても、私たちは決して恐れないと、歌っているのです。
私たちの理屈に合わないような苦難の意味は、多くの場合よく分からない…
そして私たちが願うような方法で、私たちが願うタイミングで、すぐに解決が与えられるとも限らない…
けれども、この世界と私たちを良いものとして創造され、そして完成しようとして下さっている神さま。
私たちの思いを遥かに超えた良いご計画が必ずあるのです。
その証拠に、主はこの世界に住む私たちに救いの道を開いて下さったのです。
独り子のイエスさまを私たちの救いの為に送られたのです。
この世界を愛しているから。私たちを愛しているからです。
このような混沌とした世界から救われる必要があるから、イエスさまを送られたのです。
「あなたが、この世界で絶望することがないように。
この世界が神である私から愛されていることを教えよう。
私の愛する独り子に全てを託し、
独り子をあなたたちのもとに遣わす。
秩序を失ったこの世界を救おうとしている神の愛を知らせるために」
私たち、この世の出来事の意味を知ることは出来ませんが、
主を信じる事は出来ます。
私たちに出来る事は、主を信頼する事。
どの様な状況の中にも主が共にいて下さると信じること。
主の愛をもっと知ることが出来ますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」