恵みを受け損なっているかも…【ルカ9:43-45】

2023年

人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。
「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。

ルカ9:43-45

今日の御言葉は、

群衆がイエスさまに集まっている時に、

1人の人がイエスさまに、霊に取りつかれた息子を癒して下さいと叫んだのです。

突然叫び出し、泡を吹いてひきつけを起こし、かき裂く。

他の福音書を見ると、火の中、水の中を何度も落ちたりしていた様子。

弟子たちはこの子から霊を追い出せなかったと言うのです。

イエスさまは、霊をしかりその子を癒したのです。

それを見ていた群衆は、神のご威光に驚嘆していた時…

イエスさまは言われました。

「この言葉を、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、今に人々の手に渡されます。」と言われました。

弟子たちは、イエスさまの言葉を理解出来ず、

この言葉についてイエスさまに尋ねるのを恐れたと記録されています。

また「言葉の意味を隠されていた」とも記されています。

弟子たちは、どの様に受け取ったのでしょうか。

「イエスさまは時折、不可解な事を口にされる…」

その不可解な事は、嫌な事。ただならぬ事。受け止めたくない事。

だと感じていたと思います。

だから怖くて意味を聞けなかったのではないかと思います。

この御言葉、少し変ですよね。

「この言葉を、しっかりと耳に入れておきなさい。」と言われたのに、

「言葉の意味を隠されていた」のです。

忘れずにしっかり覚えておきなさい!と言いながらも、意味を隠される。

この部分を読みながら感じた事は、

私たちの日常にも、この法則

主は私たちの「何故?」「どうして?」と問いに答えてくれないお方だからだと思います。

私たちも日々の生活の中で、

「どうしてこんな事が起こるんだろう…」

「主はどうしてこんな事が起こる事をゆるされたんだろう…」と疑問に思う事があります。

「主よ。理由を教えて下さい!」

「あなたの計画を教えて下されば、私は理解し従います…」と祈る事があると思います。

しかし、殆どの場合… 主は沈黙されると思います。

理由を聞いたところで、主の計画を聞いたところで、

私たちは理解できないからです。

多分、少しでも理由を聞いたら、もっと沢山の疑問や質問が私たちの中から出てくるんだと思います。

私たちの頭で理解できない主の計画があるのです。

ヨブも「どうして…」の祈りに答えてもらえませんでした。

あなたは、まだ理解できないであろう…

でも、私に計画があると、私にはそれをあなたに与える理由があるんだと、

私を信じてくれないか?

早く困難が私から去るようにと祈るのではなく、

私が今あなたに語ろうとしている事を、悟る事が出来るようにと祈ってくれないか?

主の計画は隠されているのです。

主の時が来ると、悟る事を望んだ者には明かされるのです。

だから、今はあなたは理解できないけど…

主が話した事を覚えておいて欲しい。

時が満ちたら、全てが繋がり、主の計画を理解でき、それが恵みに変わる時が来るのだから。

だから大切なことは、

困難が私たちに近寄って来た時、「苦しいです!助けて下さい!取り除いて下さい!」と困難が去る事を祈るのではなく…

「主が語ろうとしている事を、私がしっかり悟る事が出来ますように。」

「主の教えを受け取る事が出来ますように」

「主の計画がなされますように…」と祈る。

難しいですが…💦

でも、こういう姿勢でないと、

困難が私たちを襲い、苦しみの時間を耐え過ごし、時間の経過と共に問題が去っていったとしても、

主からの学びを得る事が出来ないと思います…

苦しみだけを受け取り、主からの語りかけを受け取れず…

もしくは、苦しみに耐えかねて、不信仰になる恐れもあります。

私はある時、こんな事を考えました。

自分の考え方を変えて見よう!

必死に「主よ。助けて下さい!!」と祈っても「どうしてですか??」と祈っても

主はいつも沈黙される…

苦難はいつか過ぎ去るもの。

どうせ主が沈黙され、自分の状況が変わらないのであれば、バタバタしても仕方がない!

苦しむという事を手放して、

「もう… 主に任せます!」

「苦しみは主に委ねます。主が私に語ろうとしている事を教えて下さい。悟らせて下さい」と祈っても良いのではないか…と思ったのです。

「苦しいです! 助けて下さい!」と祈り続け、

沈黙時間を過ごしたら、私は不信仰が芽生えてしまいます。

でも、苦しみを明け渡し、「主の計画」に目を向ける。

時が来れば、苦難は去っていきます。

しかし、苦難の後に残るものに違いがあります。

1つは不信仰。どうして主は私の祈りを聞いて下さらないのだろう…という思いが残ります。

しかし、「主の計画」に目を向けた人は、時が来ると主の計画を知ることが出来るのです!

困難が来た時、どちらを選ぶか。

どちらもその渦中は、同じように苦しいのです。

恵みを選んでください!!

苦しみだけを受け取らないで下さい…

今日も、主が私たちに語ろうとしている事を悟る事が出来る一日となりますように!!

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