祈る続ける必要性はあるのか【イザヤ62:6-7】

2023年

エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。
主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。

イザヤ62:6-7

私たちクリスチャンは、主に祈ります。

色々な願いがあったり、主の助けが必要であったりするからです。

「本当に助けて欲しい!!」という願いを持って祈るのです。

そして、多くの場合、即座に祈りの効果を感じない事の方が多いのです💦

祈ってもその祈りに効果がないのに、祈る必要があるのでしょうか。

効果がないのに、祈り続ける事に意味があるのか…

聖書を読むと私たちに「祈り」を勧めています。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4:6)

祈りに答えてもらえないのに… 願いを神に知ってもらいなさい…ってどうしてでしょうか。

私たちが信じる神は、全知全能の神なのです。

出来ない事はないのです。

それなのに、祈りの効果がないのであれば、信仰する意味があるのか…

と考えたことはないですか?

今日の御言葉を見ると、

「昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない」とあります。

数回、切に祈るのではなく、昼も夜も決して黙ってはいけない!

昼も夜も、ずっと祈り続けよ。と言われるのです。

今日の御言葉は、

破壊されたエルサレムの町を目の前にしている人たちに向けられて語られています。

破壊され、瓦礫の山となった町を前にして、祈るように言われているのです。

…いつまで、祈ったら良いのでしょうか?

いつまで朝も夜も、休むことなく祈り続ければ良いのでしょうか。

その続きに、このようにあります。

「主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで」と書いてあります。

主が瓦礫化した町を再建されるまで…ではなく、

町が再建され、エルサレムが栄誉とされるまで… 祈りなさいと言われているのです。

…それっていつだ? と聞きたくなる位、かなり先まで。

本当にそんな日が来るのか? とそんな日が来るとは想像できない日まで!なのです。

町が再建される事さえ、不可能に感じるのに。

エルサレムが栄誉とされるまで。祈り続けなさいと言われているのです。

という事は、この祈りの成就は、私が生きている間に成就を見れないかもしれません。

世代が代わり、後世で成就する可能性があります。

…私たちと主との時間が違うのです。

私たちの存在は歴史の流れの中で、ほんの僅かな時間しかない…

歴史を支配されている主の時間のスパンは、私たちの目には長いのです。

では、私たちは祈りの結末を見れないのに祈る必要はあるのでしょうか。

あります。

私の母は難しい環境の中、信仰を守って生きました。

信仰を守る事は容易い事ではなかったのです。

信仰を手放す方がもっと楽に生きれたかもしれません。

しかし、母が信仰を守ってくれたお陰で、私は信仰を継承できました。

そして母が信仰を守ったお陰で、私の人生にキリストが介入され、韓国に留学したり、夫に出会ったり、子どもが与えられ、その子どもたちも信仰が受け継がれています。

自分の信仰は自分だけのものではないのです。

良い映画やドラマ、演劇など、

主人公だけではなりたちません。

脇役も存在し、衣装を準備する方、化粧を施す方、

私たちの目には見えない隠れた存在の方々が、適材適所で働き、1つの良い作品が生まれるのとお穴痔ように、

神の計画にも、それぞれの役割があるんだと思います。

私たちは、主が「町を再建し、エルサレムが栄誉をうける」という ‟約束の道中” に、存在してるのです。

そして私たちは、主の約束が成就する橋渡しとして祈る必要があるのです。

約束は準備されているのです。

主の計画で一番良い時に、その約束は成就されるのです。

私たちは「約束の道中」に生きているのです。

主がまた来られるという約束。

罪赦され永遠の命が与えられるという約束。

約束は決まっており、成就するという事も決まっています。

目の前の状況を見たら、とうてい希望を持つことが出来なくても、

私たしたちは祈り続ける必要があるのです。

今日も、主を見上げ祈る者として過ごす事が出来ますように!

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