青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
伝道者の書12:1
伝道者の書を読んでいます。
何度も何度も出てくる「空しい」という言葉。
ネガティブに聞こえますが、
決して、無駄である、儚い、無意味、空っぽと言う意味ではなく、
地上での私たちの命は限りがあり、
一瞬であり、束の間であると言う意味だと思います。
だからこそ、懸命に、豊かに、意味のある生き方をしよう!
自分勝手は自分の欲を満たす生き方ではなく、主を覚え、主と共に生きよう!という意味だと思います。
今日の御言葉を見ると、
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とあります。
ソロモンはこの個所で初めて、主の事を「創造主」と呼んでいます。
遠い存在の神ではなく、私たちを造られ、命を与えられた自分の主権者だと強調しているんだと思います。
一方的に崇めるだけの神ではなく、自分という人間を創造した主権者を覚えなさい。
その理由として「苦しみの日々が来ないうちに」です。
人間の人生には、苦しみが来るという事です。
苦しみは、この地上での経験するものかもしれませんし、主を知らずに生き、罪の清算かもしれません。
「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
主を知らずに年を重ねれば、本当の平安や主の愛、罪の赦しを知らない時間を、人生の大半、過ごすという事です。
人間が感じる虚しさ、いつまでたっても得る事が出来ない満足感など、
大半は、罪の問題が解決していないから感じる事だと思います。
主を知らずに生きて行くという事は、本当の喜びを知らずに生きて行くという事。
それは辛い人生です。
若いうちから主を覚え、自分をお造りになり、命を与えて下さった創造主を覚えて生きていく。
全ての日々が主の支配の中にある事を記憶する。
それが、豊かな時間を過ごす事ができる道なのです。
年を重ねるごとに、「死」に近づきます。
若い時は「死」はもっと先にあると思っていますが、年を重ねると誰もが少なからず「死」意識するようになるのです。
主を知らない人が、死を意識し始めた時、
私たちは、どんなに努力しても、歯を食いしばって頑張っても、結局は死ぬんだ…と思うと、
人生は儚く感じるのです。
全てが無意味に思えるのです。
「死」の足音を感じると、
心から平安や安心感、喜びを感じる事が出来ないのです。
しかし自分に近づいている足音は、本当は「死」の足音ではないのです!
主であるイエスキリストの足音なのです。
主に出会える日が近づいているのです。
やっと、会う事がゆるされた日を迎える事が出来るのです。
決して「死」は暗く、希望がないもの。儚く、今までの人生を無意味にするものではなく、
待ちに待った、会いたかったキリストに会える日なのです。
若いうちからキリストを覚え、虚しい日々を送る事がないように…
そのような悲しい人生を歩むのではなく、
主は、私たちが幸せで、楽しい人生を歩む事を望まれています。
その為にも、主を覚える必要があるのです。
今日も、主を覚えましょう!
今日も、主に祈り、主と時間を過ごしましょう!
「主よ。あの土地を私たち(LOVE BIBLE)に与えて下さい!」