私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
申命記30:19
病院で働き、今まで出会わなかった人と出会います。
仕事に行くと、その日の夜勤担当の看護師さんが「あ~今日は〇〇さん(私)なんだ! 良かった~! よろしくお願いします!」と丁寧に頭を下げてくれます。
私も「こちらこそ、よろしくお願いします!」と頭を下げます。
ある日、見たことがない40代の看護師さんが夜勤に入っていました。
他の看護師さんに聞くと、今月から移動になってこの病棟に来た看護師さん。との事。
いつものように挨拶しようと声を掛けました。
「〇〇と言います。よろしくお願いします! 今日、夜勤ですか?」と頭を下げると、
「え…💦 今この時間にここにいるんだから、今日は夜勤でしょ…普通…」と言われ(笑)
私は、なるほど…こういうタイプか~と思いつつ、
「そーですよね~ すみません~(笑)!」と。
初めて会った時から、話しかけてくれて業務を教えてくれる看護師さんもいれば、
半分ぐらいは塩対応…
その気持ちも少し分かります。
業務が忙しいのに、新人まで気が回らないし、一から教えるより自分でする方が早い。だから出来るなら即戦力がある人が欲しいはずです。
この看護師さんは、私だけでなく他の看護師さんに対しても、殆ど会話をせず、笑う事もありません。
私は、邪魔にならないように動き、この塩対応のBさんの動きを観察しながら、役に立てるように動こうと気を付けました。
夜勤で一緒になる回数が重なるのに比例し、少しづつコミュニケーションが取れるようになりました。
そしてよく私に色々な事(業務もうわさ話も)を教えてくれる看護師さんが、このBさんについて話し始めました。
「あの人、愛想悪いでしょー?(笑) 傷ついてない?」と。
「え~ 大丈夫ですよ~」と言うと、
Bさんの家庭環境が悪かったと話し始めました。
「でもさ、私が聞く限り、そんなに酷い家庭ではないと思うんだけど。もちろん、良い親だとは思わない。
確かに、親の言葉の暴力が幼少期からあったんだけど。でもさー世の中にはもっとひどい虐待を受けてる人も居てるとおもうんだけど。
Bさんは人と関わると自分が傷つくからって、打ち解けようとしないし、自分が傷つけられる前に人を傷付けようとしてる気がする」と。
という話を聞き、なるほど…と思いました。
人と関わろうとしない。でも患者さんには普通に優しい看護師さんなのです。
10/28のブログに書いた看護師のAさん。
思いもよらず、Aさんの心の内の話を聞きました。
Aさんの話をそのまま受け取ると、
私が今までで聞いた話で、一番と言っていい位、壮絶で酷い親でした。
Aさんの親は私と同世代のはず。
Aさんの親は、親になれずに親業の真似をしてしまった…
Aさんは自分の過去を笑いながら、目を涙でにじませながら話していました。
私は思わずAさんをハグしてしまったのですが、
「よく今まで生きて来た!! 偉かった…! 本当にこんなに立派に生きてくれてありがとう!!」という気持ちになりました。
Aさんは自分の過去を少し話し、
「でもね。いつまでも親が…親のせいで…って言えないでしょ? 看護師は親に言われてなったんだけど、このまま看護師を続けたら、何かある度に親に言われて看護師になったから…って考えてしまう。
だから看護師辞めようと思ってるんです。看護師を辞めたら、親はまた暴れ出すだろうけど(笑)
私は他にしたい事があって、大学を行き直すことに決めたんです」と言っていました。
この対照的なAさんとBさん。
心の傷の問題だから、どちらが大きく傷ついたとは言いにくいし、
比べるものでもないかもしれません。
ただ自分を取り巻く環境に対して、受け取り方と生き方に違いがあるように感じました。
全ては「選択」ではないか…
まだ20代半ばのAさんの生き方を見ながら、多分多くの人がAさんのような背景で生きてきたら、凄く尖った生き方になるような気がします…
でもAさんはそのような生き方を選ばなかったのです。
これからの自分の人生を想像し、このままでは自分の心がずっと親の支配下になると考え、
看護師を辞めるという事に対し、またしても親から沢山の傷を受けると覚悟しながらも、
前に進もうとしています。
私よりずっと若いAさんを見ながら、自分はどうだろう…と考えさせられました。
私にも過去があり、心に傷がありました。
私は自分でAさんのように、傷を傷として受け取らないという「選択」を出来ませんでした。
傷は傷として受け取り、痛みを覚え長年苦しんだのです。
もしかしたら、他人から見たら大した傷ではないもので、大騒ぎしていたかもしれません。
世の中には、私が想像もできない環境下の方も居られるのです。
AさんもBさんも主を知りません。
私の勝手な思いですが、Bさんの傷は、傷のままでありBさんは傷の支配下。
Aさんは傷は傷だけど、支配下から身を避けるという選択をしています。
だからと言ってAさんは傷が癒されている訳ではなく…
前向きに自分の人生を切り開こうとしている。
私は、傷を傷として受け取る事を選択してしまいましたが、癒しを体験する事ができました。
私を傷から解放して下さったのは主です。
「傷」として受け取るかどうかは本人の「選択」
「傷の支配下」に居続けるかどうかも「選択」
でも深い深い傷の「癒し」は… 主しか出来ない…
私が一番好きなヨセフも、幼い時に兄弟に奴隷として売られ、知らない国に連れて行かれました。
自分が生きて行く所で、懸命に生きようとしているのに、
誘惑され正しさを主張すると陥れられ、人から忘れられ…
ずっと懸命に生きているのに…自分の人生を自分の思う通りに生きる事が出来なかった人生。
しかし、主の時が来て、自分を取り巻く環境から解き放たれ、自分を売った兄弟に再会し、
主の計画を完全に悟り、癒されていくのです。
ダビデも、8人兄弟の末っ子で、家族の中では忘れられた存在だったと思います。
サムエルがエッサイの子を選別し、いけにえを捧げる為にエッサイとその子どもたちを招きました。
しかし、エッサイは末っ子のダビデは呼ばず、羊の世話をそのままさせていました。
普段から存在感がない、期待もない末っ子だったのでしょう。
この話はⅠサムエル16章に記録されています。
16章前までは「ダビデ」という名は記録されておらず「末っ子」として記録されています。
しかし、サムエルから「油の注ぎ」を受けた末っ子は、それ以降、聖書に「末っ子」ではなく、数百回も「ダビデ」として名前で記録されているのです。
価値のない存在から、価値ある存在へと変わったのです。
主の「油の注ぎ」を通して、ダビデは新しい人生が始まったのです。
心が癒され、生き方が変わったのです。
「油の注ぎ」とは、主の祝福、守りと力を与えるという意味があります。
主の祝福や守りにより、新しく人生をスタート出来るのです。
私たちは、自分の人生において「傷」を選択せず「油の注ぎ」を選択できるようになりたい…
私たちは、自分の傷を自分でギュッと固く握らず、主の前に手放すことができますように…
自分の手でしっかり傷を握っていたら、主はそれを無理に取り上げたりされません。
私の傷に触る事ができないのです。
主の前に手を緩め、癒しを求めてこそ、癒しが始まるのです。
今日も、良いものを選択する事ができますように…!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」