何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
Ⅰヨハネ5:14
神さまに切に祈ったことはありますか?
私は何度もあります。
時には泣きながら、切実な願いを何度もしたことがあります。
しかし、いくら切に願い求めても、祈りがきかれないことがあります。
長く祈っているのに、全く祈りに答えられない。
これはどう考えても、主が介入してくれないといけないのに。
誰が考えても、今、主が助けてくれないと言うのはおかしい…
主が居られるなら、
主が神であるなら…
今、助けてくれないで、一体どうするつもりだろう。
このように感じた事はないですか?
答えられるどころか、良くない方向に状態が進むこともあります。
一体、主は何をお考えなのでしょうか。
何度もこのように感じては、主に絶望したことも何度もあります。
「こんなに祈っているのに、どうしてきいてくれないんだろう」
「私が願うことは自分の利益を求めてる訳でもないのに、どうして助けてくれないんだろう」
「今まで、死ぬ気で頑張ったのに…」
「寝る間も惜しんで取り組んできたのに」
「これだけが自分の人生で唯一の願いだから…」
「どの様な時も、真面目に誠実に生きて来たのに…」
…祈れば祈るほど、不信感が募ったりします。
失望は、信仰を揺らします。
…なんどもこのような葛藤を感じながら、気付いた事は、
祈る時、特に願いを祈る時、
「主よ。導いて下さい」と祈りながら、
私の頭の中には、「導きの方法や、順序や結果」など、心のどこかで思い描いているのです。
無意識のうちに「こうなるべき…」「こうならないとおかしい」「これしかない…」と。
道のりから結果まで、何となく自分の中にこれからの展開のストーリーを持っているのです。
主に委ねると祈りながらも、
「 こんな風に聞いて欲しい」という願いがあるのです。
そして、その通りに展開されず、違う事が起こると「どうして祈りを聞いてくれないんだろう」と失望するのです。
自分では、謙遜な思いで「主よ。導いて下さい」「主に委ねます」と祈りながら、
こうなって欲しい… こうなれば最高。せめてこれだけはきかれて欲しい…
祈りに対して失望を感じるのは、
自分が思い描いているストーリー通りに展開されないから、祈りがきかれていない!と感じるのです。
つまり、自分の思い通りの展開ではないから…
自分の願い通り以外は、「導き」だとは思えず、「私の祈りはきかれていない」「神はいない…」と感じてしまうのです。
「 神さま、◯◯学校に合格したいです。合格できますように」
「 ◯◯に就職したいです」
「 将来、こんな仕事がしたいです。導いて下さい」
「 成功しますように」
「 癒やされますように」
「 ◯◯が欲しいです。与えて下さい」
「 ◯◯さんが苦手です。上手く付き合えますように」
「 ◯◯に行けますように」
私もですが、
このような祈りをしてしまいます。( それがダメだと言う意味ではないです)
ゴールを決めて祈っているのです。
このように祈った場合、
◯◯学校に合格すれば、祈りはきかれ、
不合格になれば、祈りは聞いてもらら得なかった..と受け取ってしまうのです。
「〇〇に合格しますように」という祈りが間違えている訳ではないです。
願いを祈っているのですから。
しかし、もっと良い祈りは、
主が自由に働かれるのを望む祈りかもしれません。
主の御心のまま、どのようにされるのか…
主の方法に期待する。
主の導きに期待する。
主が自由に働かれる事に期待する。
祈っても主が答えてくれない! ではなく、
今ある状態が、主の答えかもしれません。
その状態で留まる事が。
自分の目には良くない方向に進む事が。
思いもしない展開になる事が。
それが、主の導きかもしれません。
主がどのように働かれるのか、期待し待ち望める信仰を持ちたいです。
私たちの想像を超えた事をされる主に、
心を空にして祈りましょう!
今日も、主の導きに寄り添う事が私たちの喜びとなりますように!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」