惰性で生きている私…【Ⅱペテロ3:18】

2023年

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

Ⅱペテロ3:18

パートに行っている病院で、

病室である患者さんが、紙に囲碁の碁盤のような絵の上に白黒の碁石を書いているのを目にしました。

「わー囲碁、お好きなんですね~」と言うと

「好きと言うか…囲碁が仕事なんです…」と。

プロの囲碁棋士だったのです。

沢山の本を書かれ、大きな囲碁教室をされていると分かり、一気に親近感が湧きました。

私は囲碁は出来ないのですが、夫は囲碁が趣味なのです。

私は時々、NHKの囲碁講座を夫が見ている横でチラ見する程度だと伝え、前々から疑問に思っていた事を聞いてみました。

「囲碁って、将棋やオセロに比べてルールが分かりにくいし、碁盤も大きすぎ…(笑)なのに、囲碁講座を見ていると、対局が終わってから両者が指した碁石について話し合っている様子を見ますが、今まで置いた碁石の順番を覚えてるってことですよね? 凄いですよね~!」と言うと、

ずっと囲碁をしている人は、初めから終わりまで碁石の置かれた順番を頭の中で映像で記憶していると話されました。

そして、対局した後に、互いにどこの石がポイントとなり競技の流れが変わったのか。

どこがターニングポイントとなり勝敗を決めたのか。を話すそうです。

その振り返る時間が凄く大切らしく、どうしてここに碁石を置いてしまったのか、ここではなく、他の所に置いていたら、流れを良くする事も出来たのに、

自分が相手のどの碁石に影響され、間違った所に碁石を置いてしまったのか、

自分の思考の癖や弱さに気付くことが出来るそうです。

振り返る事で、次の対決に生かし強くなっていくそうです。

そんな話を聞くことが出来ました。

仕事の帰り道、この会話を黙想しながら帰りました。

私は、いつかこの世を去って主のもとに帰った時、

自分の人生を主と共に、囲碁の対決の後のように振り返れると思っています。

ここがターニングポイントだった。

ここであなたが、このように選択したから、あなたの人生はこの様に開かれていった。

よく、ここでこの選択をできたね!

反対に、ここではこの選択ではなく、こっちを選択して欲しかった。そしたら違った時間を過ごせたのに。

自分が人生で遠回りをしてしまった事や、良い決心を出来た事、分かっていながら良い選択を出来なかった事など、

自分の人生を主が一緒に解き明かし、理不尽に思っていた出来事など、沢山感じた疑問、これらについて明かされるんだろうな…と思っていました。(今も思っています)

私たちは今まで生きてきて、沢山の感情を経験しました。怒りや悲しみ、苦しみ、孤独、溢れるような喜びも…

でも記憶て来ている事は、多分ごく僅か。

殆どは時間の経過と共に忘れて行ってしまいます。

しかし、囲碁のプロが対決の初めから終わりまで、碁石の順番を覚えているように、

主は、私が生まれる前から私に対しての計画を持ち、

この世を去る時まで、全ての碁石(出来事)を記録しているのです。

そう思うと、主に会うのが楽しみになります。

多分、沢山の誤解を私は持ってしまっているんだろうな。

自分勝手な解釈や想像が働き、祝福として与えられているものさえ、ストレスとして受け取ってしまっているかもしれません。

私は、身体も心も疲れた時、ふと「あーー早く主にあって自分の人生の振り返りをしてもらいたい…」と思う事があります。

でも今回、このプロの棋士の方が「対局ごとに振り返りを通して、自分の思考の癖や弱さに気付き、強くなっていく」という話を聞き、

私は、この世の人生が終わって、主と共に自分の人生を振り返り、納得したい!と思っていました。

しかし、人生を振り返りながら自分の思考の癖や弱さ、勘違い、誤解を知り、納得して、次に何がのこるんだろう…

これでは、少し人生が勿体ないように思いました。

振り返り、納得するだけでは、勿体ないです。

それを生かす事が出来ないから。

だったら、命が与えられている今の間に、

主と共に「自分の人生を振り返りたい!」「自分の思考の癖や弱さを知りたい!」「自分の誤解に気付きたい!!」と求めて生き、

残された人生で生かしていきたい…

私は何か理不尽な事があっても「いつか主が教えて下さる」と心を整理していました。

その様な考え方が間違ってるとは思いませんが、

真剣に主に「自分の人生を振り返りたい」と願っただろうか…

もっともっと喜ばれるキリスト者となる為に、信仰の成長を望んだだろうか。

色々経験した感情や傷からの解放を求めただろうか…

「いつか主が教えて下さる」と言うのは、

「私には分からないけれど、主には理由がある」という「主に委ねる」、「主に信頼する」という良い決断とも思えますが、

「惰性」にもなってしまうように思いました。

私は、惰性で生きてきたようにも思いました。

もっと真剣に、今感じる感情について、心の痛みについて祈っただろうか…

主に解き明かしを祈り続けただろうか…

命が与えられている間にしか、信仰を成長させる事はできないのに…

惰性の信仰は喜ばれない…と思いました。

信仰の成長を求めつつ、日々を過ごせますように…!!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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