愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。
Ⅲヨハネ2節
私は時々、自分の心のメンテナンスをしています。
特にこんな風にしたらいいよ!という教えを得た訳ではなく私の勝手な方法です。
私はタイミングを決めてはいないのですが、
数ヶ月に一回ぐらいでしています。
まず、自分が今、イエスさまに会ったらどうだろうかと考えます。
どういう行動をとるだろうか。
近寄る? 抱き付く? 平伏す? 隠れる?
そして、どんな話をしたいと思うか。を考えます。
その後に、プレイリストに保存しておいた自分の好きな賛美を、少し大きめの音で聞きながら祈りの時間を持ちます。
するといつも不思議なのですが、
涙が流れます。
特に日々の生活で何かあった訳ではないし、誰かに傷付けられたり、特に問題はないと思っている時期であっても、
涙が流れるのです。
多分、私たちは頑張っているんだと思います。
この時間を通して、知らず知らずのうちに疲れが溜まっている心、これ位大丈夫と思っていた出来事が思い出されます。
それを祈りと賛美と涙で自分から出すのです。
そして、もう一度、自分に問います。
「今、イエスさまに会ったらどうするか」
祈る前の答えと、祈ってからの答えを比べます。
これが、私がしている心のメンテナンスです。
イエスさまに会ったらどうするか、という問いは、私がクリスチャンになった頃から考えていました。
神さまが存在するのであれば、どうして私の人生にこんな理不尽な出来事が生じたのか、
どうして私が傷つく時に助けなかったのか。
あの時…! あの時… あれも!これも!
聞いてみたい事が多かったのです。
イエスさまを信じ、一旦自分の過去を主に委ねようとしました。
「イエスさまに会った時に聞けばいい」
「イエスさまに会った時、主が私に話してくれるだろう」と思い、
自分なりに自分の今までの人生を委ねたからです。
だから、信仰を持ったころは、
「イエスさまに会ったら、聞きたい事が山ほどある!」と思っていました。
今、イエスさまに会ったら、と考える時、
あれほど「聞きたい事が山ほどある!!」と思っていた出来事の数々…
1つも思い出せません。
何となく、あの出来事について聞きたいと思っていたんだろうな…とは思いますが、
今は別に聞きたいとは思っていません。
メンテナンスをしながら、どうしてだろう…と考えるきっかけとなりました。
聞きたいと思っていた事は、自分の人生の過去の出来事です。
過去は、昔も今も変わっていません。
理不尽な出来事は理不尽なままです。
しかし、自分の心が変えられているのです。
今まで生きてきて感じた怒りや悲しみ、痛み、苦しみ…を遥かに超える恵みと愛を頂いているからだと思います。
過去は変わっていなくても、「その過去には私の人生において意味がある」と思えるからだと思います。
主が私と共におられたのです。
主が良しとされ色々な出来事が私に起きたのです。
それを信じる事ができるようになった。からだと思います。
私はイエスさまに会ったら・・・
大きな声で「ただいま!!楽しかった!!」と言いたいです。
イエス様に「お帰り!!」「よく頑張ったね!!」と言ってギュッと抱きしめてもらいたいです。
これを想像すると私はニヤニヤします(笑)
この様に主のもとに帰りたい…と願っています。
この様に帰れるように祈っています。(最期まで良い信仰を持てるようにという意味です)
ちなみに、韓国にいる長男にlineで聞きました。
私「今、イエスさまに会ったらどうする?」
長男「今? 昨日だったら、抱き付く! 今日は謝る…💦」と返信が来ました。
あるあるですよね(笑)
今日も、主と良い時間を持てますように、祈っています!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」