私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。
それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
Ⅰコリント2:4-5
「イエスキリストを理解したら信じる」と時々聞きます。
そう思う思い…良く分かります。
私も求道中にそう思ってましたし、その様に言っていました。
でも今分かる事は…
私たちはイエスさまを理解できない…という事です。
私の頭で理解できる範囲を超えているからです。
私の頭脳に収まる神さまではないからです。
これはクリスチャンになってからも同じです。
主が示される事(導きなど)は理解できない事が多いです。
理解出来ないけれど、信じて従うのです。
従った結果、理解が出来てくることが多いのです。
従う事によって、主の計画を見せて頂く事があります。
主の成さる事は、私の頭脳を遥かに超えているからです。
今日の御言葉はパウロの言葉です。
「パウロが行った宣教は、パウロが持つ説得力や知恵の言葉によるものではなく、
御霊と御力の現れであった。
私たちの持つ信仰が、人間の知恵によるものではなく、神の力に支えられる為」
私たちは何かをしようとする時、まず考えます。
自分の能力、体力、知力、やる気…などを考慮して、出来るかどうか考えるのです。
しかし、主はそれらのものを考慮せず、能力があるなしに関わらず、選び遣わせるのです。
主から見て、誰であれ、私たちの能力は取るに足りないものであり、
主は私の能力を頼って働かれる方ではないからです。
この御言葉を読み、黙想する中、昔、韓国で聞いた説教を思い出しました。
ある牧師先生は、「異言」や「癒し」などに対して凄く否定的で、教会の中でもそれらを認めない・信じない立場として教えていました。
そして、ある時、同じ教会の信徒さんたちと共にインドネシアにアウトリーチ(宣教旅行)に行きました。
行く前に祈り会を何度も持ち、分かち合いを繰り返し準備していました。
その時、牧師先生は「私は、現地に行っても、人々の頭に手を置き癒しの祈りなど行わない!」と宣言していました。
そして実際に出発し、予定をしていた村に入りました。その村には牧師がいないのです。
現地の人々は「韓国から牧師が来た!」と噂になり、病にかかった人や体が不自由な人が大勢集まったそうです。
牧師先生は「私は癒しの祈りは、信じていないので行わない!」の一点張り。
同じチームの信徒さんたちが「でも先生… このように大勢の人が来られてるんだから、せめても頭に手を置いてあげたらどうですか?」
と言われ、牧師先生は、頭に手を置き癒しの祈りをするのではなく、
集まる一人一人の頭に祝福をする思いで手を置いていったそうです。
そして次の日… 昨日よりもっともっと多くの人が集まって来たそうです。
昨晩、集まった人たち、頭に手を置いてもらった人達が、次々に癒しを受けていたです。
その噂を聞いて、大勢の人が集まったのです。
2日目も3日目も。
そしてアウトリーチを終え、韓国に帰国しました。
牧師先生はこのように言われました。
「主の能力とは、私の信仰とは関係ない。私が信じる信じないにも関係ない。私の能力とも関係ない。ただ主の能力にだけ関係する。」
私が主を理解するしないに関係なく、信じる信じないに関係なく、私に能力があるかどうかも関係ないのです。
主は働かれる時に、働かれるのです。
私たちが主を理解できないという理由で、否定したり、信じないのは、主の働きを小さくするのです。
常識的に考えて、それは無理だから。あり得ないから…という理由で、
心に示された事をせずにやり過ごしている事が多いと思います。
分からないから従わない、信じない…は、主を小さくしているのです。
理解したからではなく、理屈ではなく、常識でもなく、
「主が言われたから」…主に従う!
私たちが主に従い、主が働けるように…私たちは心を開く必要があるように思いました。
私たちが経験した事がない主の御力… 山ほどあるはずです。
今日も、共に主に期待して一日を過ごしましょう!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」