しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
Ⅰコリント12:18
教会の年配の方が「段々、教会に来るのが申し訳なく思う」という声を時々耳にします。
若い時は、教会で奉仕をしトラクトを配り、積極的に信仰生活を送っていたけれど、
段々と、人の助けがないと教会に来れなくなることがあります。
「いつもごめんね」「お手数おかけします」「年を取ると人のお世話にしかならない」という言葉を聞きます。
また歳に関係なく「自分は役たっていない」「特別な奉仕もできない」と思ってしまう人もいるようです。
このⅠコリント12章を読むと、
「1つの体には多くの器官があるのと同じように、それぞれの人はキリストの体なる教会の器官である」とあり、
教会にはそれぞれの人がいて良いんだ。
それぞれに与えられた役割がある。
だから互いに一つの器官として受け入れましょう。と言われています。
しかし、実際には教会の中には問題が結構あります。
「教会に来ている人たちは、教会の各器官の1つ」と思いながらも、「本当にあの人さえいなければ、、」と思ってしまったりするのです。
今日の御言葉を見ると、
「神は御心に従って、身体の中にそれぞれの器官を備えてくださった」のです。
教会に集まった人たちで、教会と言うキリストの体を形成するのではなく、
教会と言うキリストの体を形成する為に、主が一つ一つの器官を集められたのです。
集まった人たちで一致するのではなく、一致する為に集められているのです。
集められた各器官は、働きが違い、役割も違います。
各器官の働きに「違い」があるのです。
しかし私たちは他の器官に対して「違い」だと受け取らず、「‟間”違い」だと思ってしまう事が多いのです。
各器官が独立して生きていけないように、身体に属する必要性があるのです。
そして違いのある器官は、調和も必要なのです。同じ一つの身体に属する器官として一致する心、調和しようとする思いが身体のバランスを保つ為に必要なのです。
韓国の友達の証を聞きました。
友達は100名ほどの韓国では小さいとされる教会に通っています。
そこに、本当にどうしようもないトラブルメーカーだと感じる人が居たそうです。
何かにつけ、余計な発言を通して教会をかき乱す存在だったそうです。
そしてその人の服装も決して良いとは言えない印象があり、その人も自分があまり好かれていないと分かっているだろうに、結構発言をするタイプだったそうです。
誰もが避け、出来るだけその人と接点を持たないようにしようとしていたそうです。
「本当に・・あの人さえいなければ、教会はもっと平和で愛に溢れた教会となれるのに・・」と皆が思い、その人の話になるとため息がつきなかったそうです。
ある日、その教会の一人のクリスチャンが幼い子どもを連れスーパーへ。
そこで懐かしい友達に出会い、思わず話し込んでしまったようです。
そしてその間に子どもは1人ウロウロ・・
幼児の母親は子どもが居ない事に気付き、探し回り、アナウンスをしてもらっても子どもが見つからず・・
凄く焦ったそうです。スーパーの外は車の通りが多い大きな道路があるからです。
スーパーの店員たちも外に出て探したそうです。
結局、スーパーから少し離れた所で、教会のトラブルメーカーと言われていた人が「教会の子どもだ」と気付き、一緒に居てくれていたそうです。
初めて「この人と同じ教会でなかったら、子どもを失っていたかもと思うとゾッとした。」と言ったそうです。
そのことを通してその人への見方が、教会でも変わって来たそうです。
私たちは、互いに愛してくれる人だけを愛している。
私たちは、互いに受け入れてくれる人だけを受け入れている。
私たちは、自分と違う人を受け入れていなかった・・
自分達に本当の愛がないという事に気付いたそうです。
この方が居たからこそ、自分たちに愛がない事を知り、教会全体が悔い改め、教会が成長したそうです。
あー、私はあの人のような賜物がないから、私は教会で役に立たない。
あー、私はあの人のように出来ないから私なんて必要ない。
あー、私はあの人のように・・という思い。
だから、私は教会に行かない。行けない。
この様に思い考える事が、謙遜のようにも見えますが、
この心の姿勢は、主が願っている御心に反する姿勢だと思います。
主によって集められた器官が、自ら自分は「必要ない」と考えているからです。
私は、教会に必要として集められた大切な器官であり、隣人も同じく大切な器官。
心の姿勢を見直したいと思います。
今日も、主と共に歩み、1つの器官として良い働きが出来るように祈り準備する一日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」