あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ
詩篇32:7
月曜日の登校時、次男はいつもよりテンションが高いのです。
週末の土曜、日曜と教会で過ごしエレキで奉仕をし満たされて月曜日を迎えるからです。
そして、同じクラスの男の子と一緒に、私の運転で学校へ行っているのですが、
車の中でのテンションが高く・・(笑)
今、次男は韓国の賛美を日本語に訳したいと思っており、韓国語の実力が足らないので、一緒に行っているノンクリの友達に力を借り、意味を確かめては車の中で歌ってみたり・・を繰り返します。
次男「この文って日本語で何て訳す?」
友達「んーー主は私の避難所・・避難所?」
次男「避難所って何? 地震の時の避難所?」
私「韓国語の聖書で‟主は私の避難所”って書いてある所があるのよ。日本語の聖書では‟主は私の避け処”」
次男「避け処・・・文字が長すぎ!拍数に合わない!・・ところで、避け処ってどういう意味?主は避け処?」
そして旧約聖書に出てくる「逃れの町」の話をしました。
神さまがモーセに作るように言ったのです。
6つの逃れの町がありました。(ナフタリの「ゲネシュ」、西マナセの「シェケム」、ユダの「ヘブロン」、ルベンの「ベチェル」、ガドの「ラモテ」、東マナセの「ゴラン」)
主は、故意に人を殺した場合と、過失により人が死んでしまった場合とを区別して取り扱われたのんです。
過失により人を殺してしまった場合、「逃れの町」に逃げる事ができました。
逃れの町に逃げた者を追いかけ復讐する事は禁じられていたのです。
逃げた者にとっては、逃れの町は安全な町であり、復讐されるという恐怖から解放される町なのです。
誰もがその町に逃げる事が出来た・・・と話すと。
次男「あーー今の時代はイエスキリストが俺らの罪を許されたから、逃れの町は必要なくなって、キリストが避け処になったのか~」
友達「ふーん・・良く分からないけど、そうなんだ~」
イエスさまは、私たちの罪のために十字架の上で死んで下さいました。
私たちは、完全に誰でも逃げ込める逃れの町が準備されているのです。
それはイエス・キリストの十字架のもとです。
旧約時代の逃れの町は、ほぼ均等に6つの逃れの町がありましたが、そこにたどり着くまでの道のりという苦労があったのです。
しかし、私たちの与えれている逃れの町は、遠く努力や修行を必要としない所にあるのです。
いつでも、自分の罪を告白し、逃げ込むことが出来る場所が準備されているのです。
しかも逃れの町の門は、いつでも開かれた状態です。
主は、その門の向こう先で、両手を広げて私たちが入って来るのを待っておられます。
私たちは、主を避け処として選ぶならば、罪の赦しと癒しを得る事ができます。
主の十字架の元には、主の恵みと罪の赦しがあるのです。
新しい命を得る事が出来るのです。
神の子として生きていく事が出来るのです。
私たちが主の中に逃げ込めば、そこは安全な場所なのです。
しかし、1つだけ注意があります。
この避け処は、入る事も出る事も自由なのです。
沢山傷つき、主に依り頼む思いで十字架の元・・避け処に身を寄せ・・
主の癒しを頂き、回復し・・・すると過去の自分を忘れてしまう事があります。
世の中が恋しくなるのです。
魅力的に見えたりもするのです。
外の世界が刺激的に見え、外に出たくなるのです。
これらは誘惑です。
キリストの中に入った者は、過去の戻らないように気を付けるべきです。
主がどの様に私たちを許し、癒し慰められたか、ずっと記憶する必要があります。
私たちには「選択」が委ねられています。
主のもとに来る選択、またもう一度出ていく選択・・
主の中で留まるという選択を日々して下さい!!
今日も、主の中で留まり、主と共に歩む1日をお過ごしください!!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」