すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
マタイ19:16
今日は、この御言葉の「どんな良い事をしたら」が心に残りました。
マルコとルカの福音書を見ると「私は何をしたら・・」と書かれています。(マルコ10:17、ルカ18:18)
この質問をした人は「青年」であり「役人」で「裕福な人」です。
イエスさまの姿を見て、何かを感じたのです。他の教師は偽善的であるのに対し、この教師は本物だと感じた様です。
この青年は、何か自分たちにある親切や、善行など何か、道徳的に良いことをしたら、それが神の国につながっているのだと考えたのです。
自己現実(偽りのない自分の姿で好きなことをして、それが社会貢献につながる状態)を通してのみ、永遠の命に繋がると考えたのです。
これは人間のレベルの発想です。
私たちはこの「金持ちの青年への教え」の話を読む時、青年が少し「的外れ」な質問をしていると知っています。
私たちは「良い行い」をすれば、神の国に入れるのではないと知っているからです。
しかし・・・私たちとこの青年・・同じ状態かもしれません。
イエスキリストには、他の宗教にない何かがある。
イエスキリストこそ、罪の赦しと救いがある。
イエスキリストには愛がある。
私たちも「何か」を感じ・・キリストに惹かれ、聖書や教会に扉を開いたと思います。
私たちは主の福音を知りながらも、キリストの救いについて知りながらも、どこかこの青年と同じような感覚を持ってしまっています。
私たちは、外的な「義」について心を配ります。
私たちは、クリスチャンとてしての自分の「行為」に気を配ります。(特に私・・)
毎週日曜日には教会に行く。教会の奉仕をする。献金もする。隣人を愛そうとする。親切にする。
これらを守り、自分に大きな罪がなければ・・・これで、何となく「クリア」したように感じてしまっているのです。
「大丈夫。私は日曜日は教会を優先して出席している」「今月は本当に苦しいけれど、献金は必ず捧げてる」と安心してしまっているのです。
どうして安心するのでしょうか。
これらを守れば信仰生活において「心に引っ掛かり」「罪悪感」を感じないからです。
外的な「義」であるクリスチャンとしての行為を守れば、罪悪感を感じないからです。
これらがクリアしていたら、信仰生活が上手くいっていると安心してしまっているのです。
しかし主が望まれているのは、私たちが基準としている外的な「義」ではなく、
主は、私たちの内的な「心」について重きを置かれているのです。
私たちは、自由に教会に通い、ネットを通して世界中の説教を好きな時に聞けます。ネットを通して神学校へも行けるのです。
イエスさまだどういったお方なのか、どの様な働きをされる方なのか、今では世界中のクリスチャンの証を聞く事も可能なのです。
20年程前に比べると、聖書に対しての知識を得やすい環境になりました。
私たちの頭に、イエスさまへの情報や知識が増えたのです。
知識を増やす事は本当に大切だと思います。
知識が信仰を支える事があるからです。
信仰が揺れ動いた時に、持っている知識が信仰を繋ぐことがあります。
だから、知識を得る事も大切です。
しかし知識を得るという事は良い事でもあり、勘違いを引き起こしてしまう事でもあります。
主が望んで居られるのは、私たちの「頭が知識で一杯になる」ことではないからです。
主が望んで居られるのは、私たちの「心が主で一杯になる」ことです。
頭で一杯になると、聖書が少しずつ分かって来ると、色々な事が繋がり楽しく感じるかもしれません。
しかし、それは頭が満たされるのであって、心が満たされるのとは違うからです。
主が望まれる私たちの心は、何で一杯になっているでしょうか。
主の愛で満たされているでしょうか。
満たされた主の愛が、隣人への愛へと流せているでしょうか。
神の子としてのアイデンティティを持つことが出来ているでしょうか。
神の愛が、主に仕えたいという思いへ繋がっているでしょうか。
自分の心が、何で満たされているのか、もう一度考えたいと思います。
今日も、主に心を満たされ、その祝福を流す一日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」