イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。
イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。
日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。
また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。
朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。
しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。
ルカ4:38-44
ここに書かれている会堂は、カぺナウムにある会堂です。そしてその会堂からペテロの家は目と鼻の先にあったと言われています。
イエスさまは、会堂で教えられた後、よくペテロの家に行かれていたのではないかと思うと、ペテロが羨ましい限りです・・・
ある日、ペテロの姑が高熱で苦しんでいるのをご覧になったイエスさま。
熱を叱り、癒された姑。
その日の夕方、沢山の人々がペテロの家に集まったのです。
人々が病人や悪霊につかれた多くの人を連れて来たのです。
イエスさまは、群衆に向かって「病よ去れ!」という一言で癒す事も出来ただろうに・・
1人づつ手を取り癒されたのです。
そして、イエスさまは朝方に寂しい所に一人で行かれたのです。イエスさまはいつも癒しなど多くの事をされる時、朝早く一人で祈りの時間を持たれたのです。
そして、決まって人々は居なくなったイエスさまを探します。
「イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした」と記録されています。
自分たちの所から離れないで、ずっとここに居て欲しかったのです。
どうしてでしょうか。
もし、この人々の中に自分が存在していたとしたら・・どうでしょうか。
私もイエスさまが他の所に行かないで、自分が住む地に留まって欲しいと思うと思います。
どうしてイエスさまが留まって欲しいと思うのか・・
まだまだ癒されていない、癒しを必要とする人が沢山いるからです。
そして、この様な事を出来る方が、同じ町内会に居たら良いと思いませんか?
私たちは生きて行く中、沢山の困難に出会います。
1つの困難がやっと過ぎ去っても、また何かしら問題がやってくるのです。
ここに出てくる人たちも同じです。今、自分を苦しめる病が去ったとしても、また何かしら問題がやってくると分かっているのです。
この様な事を繰り返しながら生きているのです。
イエスさまの口から出る1つ1つの言葉は、今までに聞いた事がない素晴らしい言葉です。
またそのような知恵や知識を持ち、癒しを行う事が出来る方が、権力を振りかざす様なタイプではなく一人一人の手を取り、寄り添ってくれるなんて・・
絶対に傍に居て欲しいですよね。
イエスさまが私たちの市長、もしくは知事とになって欲しいです。
イエスさまが人生の指針となって、イエスさまに頼って生きて行きたいと思うと思います。
イエスさまは、そのような私たちの心も全てをご存知です。
この時も、イエスさまに癒しを求める時、人々が病人や悪霊に付かれた人を連れて来ています。
病人を哀れに思う隣人が居てる事を感じているのです。イエスさまは、病人の苦しむ心はもちろん、その隣人の心も分かっているのです。
隣人を憐れむ心を持つ私たち・・問題に対処する能力がなく、問題に心を奪われてしまい苦しみを感じる私たちの姿。
イエスさまは、この時も人々に対して憐れみを感じたのではないでしょうか。
だからいつも、癒しを行った後、1人寂しい所で祈りの時間を持たれたのではないでしょうか。
イエスさまは人であり神の子です。
私たちの心を、私たちと同じ目線で理解されるのです。
イエスさまが天のお父様に与えられたビジョンが、揺るがないように祈る時間が必要だったのではないかと思います。
自分たちから離れて行かないよう、引き止めようとした群衆に向かって
イエスさまは「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」と言われました。
「どうしても」と書いてあります。「私はあなたたちの心は知っている。でもどうしても、行かないといけないんだ・・」というイエスさまの心が見えます。
イエスさまの目的、父から与えられたビジョンは「福音を宣べつたえる事」なのです。
私たちが切に求めている癒しが一番ではないのです。
しかし弱い私たちは、自分の目の前にある、自分を苦しめる病の癒しを求めるのです。
イエスさまの「どうしても」という言葉に、イエスさまは葛藤を持たれたんだと感じます。
天の父からのビジョンと、私たちの切に求める心の差。
言葉一つで癒しを行わなかったのは、イエスさまは「福音を伝える」という目的があるからです。
癒しが目的であれば、言葉だけで一斉に癒す方がコスパが良いのです。
広い所に病人を集め、一度に一言でバンバン癒す事も出来たのです。
しかし時間をかけ、一人一人と向き合うという事は、イエスさまの体力も使われます。
「癒し」を体験して欲しいのではなく、「癒し」を通して一人一人が「福音の体験」をして欲しかったのです。
この時代の人々はイエスさまを自分の目で見て、自分の耳で御言葉を聞けました。
「良いなあ~、私もこの時代に生きていたら、もっと主を信じれたのに。奇跡を体験出来ていいな!」と思いますが・・
しかし・・私たちは聖書を読むことが出来る時代の人なのです。
私たちは、この時代の人たちとは違い、聖書を通して、歴史を通して、イエスさまを少し俯瞰(ふかん)して見る事ができるのです。
イエスさまの行動や言葉の意図を知る事ができる時代に生きているのです!
この「どうしても・・」というイエスさまの言葉・・
私たちはどのように生きて行けばいいのでしょうか。
私たちは聖書を読み、
イエスさまの心に寄り添える者になりたいです。
主が一番求めているものは何なのか。を考えれる人になりたいです。
今日、聖書を通して主の望みは何なのかを考える一日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」