彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おとり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
使徒3:3-8
御心にかなう願い・・・
私たちは「その主の御心が分からないから、祈りに難しさを覚えている」・・と思いませんか。
「主の御心」って何なんでしょう。
御心が分かれば、それに沿って祈れるのに・・そんな事をよく考えました。
「主の御心」って何だろう?と改めて考えるようになり・・これについて書くのは不可能です。
私たちの思考や発想を超えた主の考えや思い。
その方の「心」「思い」と書くなんて・・💦
だから、今、感じる部分だけ、本当に僅かな部分だけを記録したいです。
私たちは、主に祈ります。節なる願いを持って。
でも、なかなか祈りが聞かれない事が多いです。
御言葉には「御心にかなう願いは聞かれる」と書かれています。(Ⅰヨハネ5:14)
だから主の御心を教えて下さいと祈るのです。
御心を知りたい!と思いつつも、疑問もあります。
御心を知れば、私たちはその通り素直に聞き従えるのでしょうか?
私を含め、多くの人の祈りは(多分)結末まで含めて祈っています。
「〇〇となりますように」
「〇〇しますように」
「〇〇なるように導いて下さい」
私たちは多分・・御心を教えて下さい!と祈りつつ、自分のシナリオがあるのです。自分で勝手に決めた主の御心を持ってしまっているのです。
「これが御心のはず」
「・・これが御心であって欲しい」
「誰が考えても、こうなる事は良い事だから・・これは御心だ」
御心・・と考える時に、私は聖書の2つの話を思い出します。
一つ目はザカリヤとエリザベツです。エリザベツは不妊だったと記録されています。2人は子どもを望みました。
ある日、ザカリヤに天使ガブリエルが現われ「エリザベツが男の子を生む」と告げたのです。
ザカリヤは信じられなかったのです。
ずっと願っていたにも関わらず、”祈りが聞かれるよ!”と聞いた時に、ザカリヤは感謝して喜んだのではなく、口から発した言葉は「私たちは年寄りです」でした。
ザカリヤたちの子を求める祈りは御心にかなっていたのです。
しかし、人間的には無理だろうと諦め、途中で祈りを辞めてしまっていたのです。
ここで感じたのは、「信仰」と「願い」は違うという事です。(ザカリヤが祈りではなく願いだったという意味ではないです)
一生懸命に願い求めていても、それは「願望」であり「信仰」ではないのです。
信仰がない祈りは、中途半端な祈りになるのです。
”祈りがきかれるよ!”と言われ、大喜びするのではなく、”どうして?”というどちらかと言えば、否定する様な反応になってしまうのです。
祈りながらも、「聞かれないかもしれない」という思いを持ってしまっているのです。
そして、直ぐに祈りが聞かれないと、祈るのを辞めてしまうのです。
祈りを辞めてしまう、諦めてしまうと・・
「祈っても与えれない」と主に対して疑心暗鬼が生じ、不信仰へとなびいてしまうのです。
信じて求め続けるという事が大切だと思います。
もう1つは、ペテロとヨハネが、生まれつき足のなえた人を癒した話です。
足の悪い人が切に求めたものは、金銭的な施しです。
彼が切に、心から求めたのは「今日の施し」「今日の食事」だったのです。
私たちが日々、主に求めているのも、この足の悪い人と同じかもしれません。
目の前にある問題、早く解決したい問題、今困っている事、今降りかかっている不便・・・人間的な判断により・・
今、私が必要としているものを求めるのです。
この足の悪い人のように、足が癒されるのは、流石に不可能だと勝手に判断してしまうのです。
生まれた時からだったし・・生まれた時から両親も祈っていたけど、癒されなかったし・・足が癒されるのは無理だと望む事を忘れたのです。
しかし彼にとって根本的な問題、生まれつき足が悪いという事で、自分で働く事が出来なかったのです。
だから生きて行く為に必要な食べ物の施しを求めていたのです。
「今日、生きて行く為に必要な施し」が切なる願いとなってしまったのです。
しかし主が与えられたのは、身体の癒しをされたのです。
主は全てを知っておられるのです。
彼にとって必要なのは、「今日の食事」ではなく、彼が持っている「究極的な願い」なのです。
私たちも、目先のものばかりに心も目も奪われ、それらを求めてしまっている可能性が高いと思います。
主が本当に与えたいものとは違う、小さいものを必死に求めてしまっているのです。
私たちは愚かで、つい目に写るものに心が動きます。
目の前にある問題に心が持って行かれるのです。
もしかしたら、私たちが必死に「今日の食べる物」を求めすぎて、主が私の足を癒して下さっているのに、「主は祈りに応えて下さらなかった」と感じてしまっている可能性もあります💦
御心かどうか分からない時、
「主よ。私はこの様に願っています。この様に助けてもらう事を切に願っています。しかし御心でないのであれば、私に気付きを与えて下さい。私の心を変えて下さい。
御心であるならば、主の時が来るまで祈り待つ事が出来ますように」と祈るのが良いかもしれません。
私たちは、祈った事を忘れてはいけないのです。
忘れると主に対して疑心暗鬼と不信仰しか残らない・・のです。
御心にかなう祈り・・難しいですね。
ついつい自分の願いを祈ってしまいます。
主が御心通り動かれるように、自分の思いを主の前に下ろし祈っていきたいです。
また「流石にこれは無理だろう」と勝手に諦めている事柄を祈っていきたいです。
今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!