しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
Ⅰテモテ6:6
私の知人に、「凄くステキだな~」「凄く幸せそうだな~」と感じるクリスチャンの人がいます。
いつ会っても、落ち着くし、安心して話ができます。いつも会うのが楽しみで、また会いたいと感じる人です。
もちろん、「凄くステキだな」と感じるのは主観ですが・・でも多くの方に好かれていると思います。
どうしてそう感じるんだろう。
彼女は凄く幸せそうに見えます。
私や他の人と何が違うんだろう・・・
いつ会っても、気持ちに安定感を持っています。
悪口の様なマイナス的な発言がないのです。
会えば、話せば落ち着くのです。
話を聞く姿勢があるし、何を話しても決して驚かないし、拒否されないのです。
受け止めてもらえるのです。
簡単に言えば「懐が広い」のですが。それだけではないように思います。
素敵だな・・と感じる人たちにも、人生の中で悲しい出来事、理不尽を感じる出来事。人から傷を付けられたり、心無い言葉をかけられる事もあります。
暗い過去もあります。
特別、困難が少ない人生と言う訳ではなく、他の人と同じです。
「主が与えて下さるものは、いつも感謝なもの」と言われていました。
その一言から・・
良くない事が起こっても、それは自分の目で見て”良くない事”というだけであって、必ずしもそれが本当に”良くない事”かどうか分からない・・
もしかしたら、主は”良い事”を与えようと、私に与えられているものかもしれない。
仮にそれが本当に”良くない事”だったとしても、意味もなく主は与えられない・・
私に必要だから与えられている。・・・と言う考えを持っておられると分かります。
彼女はいつも「感謝」と「満足」で満たされている・・
今ある状況に、満足する事を知っているんだと思います。
幸せな人生とは、自分の人生に満足出来ている事だと思います。
私は、主に「感謝」は出来ても・・「満足」が足らないように思いました。
でも考えて見れば・・「満足」が足らないということは、心から「感謝」が出来ていないのです💦
本当の意味で「感謝」が出来る人は「満足」出来ているのかも・・
「感謝の量」=「満足の量」かもしれません。
どうすれば、私は「いつも感謝」し、「いつも満足」出来るのだろう・・。
一般的に、人が「幸せ」「満足」を感じるのは、自分の「欲望」が満たされた時です。
この欲望の次元が・・美味しい食べ物や、欲しい物などのようなものであれば、それらは短期間で私たちを幸せを感じさせます。
しかし手に入れれば、直ぐに満足も幸せな思いも、時間と共になくなります。
しかし欲望の次元が・・人を愛せる人になりたい、良い家庭を築きたい、社会や教会に貢献したいと言うような内面的なものであれば、幸せや満足も成長を続けようとする持続性があります。
私たちが住む世の中は、物質や情報が溢れています。
前者の私たちの「欲望」や「幸せ」を簡単に与えようとする短期的なものが、世の中に溢れているのです。
これは、一見、世の中が豊かになったと勘違いしてしまうものです。短期的な欲望がチラつき、簡単に手に入れ、、、与え、手に入れ・・を繰り返す事になるのです。
そして、いつまでも欲望を追いかけっこする事で、虚しさが残るのです。
生きる事に疲れさせるのです。
これは豊かになったのではなく・・・罠の様な気がします。
私たちは、どの様に生きて行けばいいのでしょうか。
短期的に自分を満たすもの・・食べたいもの、買いたいもの、旅行やしたい事をする。
これらは悪いものではないですが、それらは、ずっと私たちを満たすものではないという事。
追い求め続けても、本当の満足にはたどり着かないという事を記憶する必要があると思います。
バランスがよい食事を保つ事によって、私たちの健康が保たれます。栄養が私たちの内に取り込み、留めるからです。
私たちの霊も良い状態を保つ為に、良い思い、良い考えを私たちの内に取り込み、感謝する心、満足する事で満たし留めて行かなければならない。
無くならない満足感を得るために、
まず、自分の中に「感謝を留める」という事を習慣化する必要があるように思います。
良くない考え、良くない感情を、自分の中で反復するのではなく、その様な思いは早く捨てる。
また人と話していて、不平不満の声を自分の中に溜めない。
感謝の声を自分の中に溜めていく。
世の中には、感謝の言葉より不平不満の言葉の方が多いかもしれません。
自分の中に溜める言葉と、溜めない言葉。
自分の中に溜める思考と、溜めない思考。
日々、選んで行かなければなりません。
私たちクリスチャンは、御言葉を溜めて行きましょう。
体中を御言葉で一杯にして歩んで行きましょう。
今日も、主との交わりを通し、主を溜めて歩みましょう!