しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
ローマ8:37
近所の子どもに凄く元気な子が居ます。
3歳前の男の子です。この年頃の男の子、怖いもの知らずです。
特にこの子はエネルギーが有り余った感があります。
いつも、ママの手を振り払って一人でダッと駆け出し、ピューっと遠くまで走り
「危ないよー待ちなさい!」と言われても、怖いもの知らずのように後ろを振り返らずに走り、ママが追いかけていました。
よくママも大きな声で注意しているし、大声で泣きながら暴れている姿も見かけました。
見かける度に、「ママさん、ちょっと大変だろうな💦」と思っていました。
先日スーパーに行ったら、この男の子を発見!
しかし、いつもと様子が違います。シクシクと泣いているのです。「あれ? あの子、近所の男の子じゃないかな・・」
迷子になったのか、店員さんがしゃがんで話しています。
周りを見渡してみると、ママらしき人が遠くに居たので、近寄って声を掛けました。
男の子はママの姿を見て、先ほどまではシクシク泣いてたのに、安心したのか大泣きに💦
そのような姿を見ながら、我が家の長男も、2-3歳の時、無鉄砲で怖いもの知らずだったな~と懐かしく思い出しました。
ああ、、私もこの様な光景を何度も見ていたのに・・と、今になって気付きました。
小さな男の子の泣いている姿は、私たちの姿に見えます。
いつもの怖いもの知らずで無敵な男の子は、ママを見失ってしまい一気に不安に襲われたのです。
今までは自分勝手な行動をとっても、後ろにいるママが自分を見ている、自分を捕まえてくれると安心しきって好き勝手出来ていたのです。
しかし、ふとその安心感を失った事に気付き、驚き絶望を感じる泣くのです。
この小さな男の子は、絶対的な安心感を感じれなくなり、不安に襲われました。
大人である私たちも、この小さな男の子と同じような状態になってしまう事が多いと思います。
人生に問題が生じた時、
苦しみを感じた時、
孤独を感じた時、
避けて通りたい出来事に直面した時、
病になった時、、、
絶対的な安心感を感じれなくなり、心が揺れ動き一気に不安に襲われるのです。
ヨセフが兄たちに穴に突き落とされたように、
私たちも自力で出る事が出来ない、深い穴に落とされた状態になるのです。
この穴から自力で出れないように感じ、不安と絶望に襲われるのです。
そして生きるのが辛く感じてしまうのです。
小さな男の子の姿は、私たちが困難に出会った時と同じ姿です。
日頃から、ママ(主)の話を聞くより、目の前の出来事に興味深々なのです。心が奪われてしまい、ママ(主)が話しているの声が耳に入らないのです。
ママ(主)が「危険が多いから手を繋ごう」と言っても、手を繋ぐことを拒み、1人で勝手に楽しみたいのです。
目の前の好奇心をくすぐられる出来事に、心が奪われるのです。
そして、ママではない他の大人が、迷子の状態の子どもに気付き、声を掛けます。
子どもは、自分の状態に気付いてくれたことに少しの安心感を覚えます。
しかしママの姿を見るまでは、シクシクとしか泣けないのです。
他の大人ではダメなのです。
自分のママの姿を見て、本気で泣けるのです。本気で安心出来るのです。
本物の自分のママでないとダメなのです。
迷子の幼子は、主を見失い、絶望を感じ、どうする事も出来ない自分の姿。
その心の不安を埋めてくれるのは、主以外ないという事です。
主以外の他のものは、一時的であり絶対的平安ではないのです。
しかし、この幼い男の子は、私たちと少し違う点があります。
この男の子には、日常的に心の中で、「何があっても大丈夫。絶対的なママがいつも僕を見ているから」という疑う事がない確信(信仰)を持っているという点です。
・・・幼子のような絶対的な信仰が欲しい・・
今日の御言葉にあるように、
主は、私たちが「圧倒的な勝利者」であることを望まれています。
「これらすべてのことの中」とは、35節にある患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣です。
私たちが感じる問題を指しています。
聖書が教える「圧倒的な勝利者」とは、
自分の置かれた状況に関わらず、心が揺れ動かされず、平安も持てる者なのです。
迷子は、迷子になってやろう・・と思って迷子になる訳ではなく、思いもよらず迷子になるのです。
私たちの困難も、思いもよらず降りかかって来る事が多いのです。
日々の生活から、圧倒的な勝利者になれるように準備したいです。
今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!!