道を見失った時【ヨハネ14:6】

2023年

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ヨハネ14:6

道を見失った事はないですか?

人生の道です・・

この道で合っているんだろうか。

これが本当に御心の道なのだろうか。

どの道を選択したらいいか分からない時。また道が無くなるように感じる時もあります。

私も、何度も道が無くなり、1人荒野に残されたように感じる事がありました。

人生の迷路に迷い込んでしまったかのように感じる時、

自分が宙に浮いているかのように、地に足が付かず、1人宇宙に浮き彷徨っている感じ。自分が何処に居るのか分からなくなったり、

進むべき道がないと感じたり。行き止まり、八方塞がりのような状態になったりしたこと、あると思います。

この様な時、どうすればいいのでしょうか。

これからの人生でも、道が無くなるように感じる事があるかもしれません。その時、どうすればいいのでしょうか。

私は聖書を読んでいて、不思議に思う事が多いのですが・・

その一つとして、どうして主はモーセを用いて劇的な、壮大なプロジェクト・イスラエルの民をエジプトから救い出すという「出エジプト」を実行されたのに、愛する民を40年間も荒野で彷徨うようにされたのだろう・・

40年ってかなり長いです。その間、新しい生命が沢山生まれているはずです。

聖書には沢山の数字が出てきます。そしてその数字には意味があると言われています。

「40」とは、「聖なる数」「試練・苦難」や「裁き」「準備期間」を意味します。

ノアの箱舟では40日40夜雨が降りました。イエスさまも40日断食した後に、サタンに誘惑を受けました。また十字架の復活後、40日弟子たちの前に姿を見せられました。(他にもあります)

まさに、この「荒野」とは「道がない」という意味です。

主は、わざと民を荒野に置かれたのです。

荒野に民を置き、全能なる主を知る為です。主を学ぶ為です。主を経験する為です。

自分の神が、主であると魂に刻む為です。

何度も何度も、失敗や不信仰を繰り返します。その度に、主は民と向き合われました。

祈りに答えられました。

愛する民が、主を覚える為に荒野に置かれたのです。

自我が砕かれ、欲や罪を簡単に選んでしまう習慣など、その様なものから得る喜びには価値がないと悟り、

主に目を向けて生きる為に、最低40年必要だったのかもしれません・・

私たちも八方塞がりになったり、進むべき道がなくなったり、道を見失うのは、自分の不信仰がきっかけかも分かりませんが、主が許され、荒野に置かれたのです。

だから、私たちも道を失い彷徨いを感じ、荒野にいるかのように孤独に感じるのは、

主がイスラエルの民に語られたように、「あなたが探している道は私だ」と語られているように思います。

荒野に置かれる状態は、私たちにとっては辛く不安であり絶望的に感じます。

しかし、私たちは怠惰という特性があります💦 いつも満たされていたら、祈らなくなり主を求めなくなるのです。

道を見失った時、主が「あなたが探している道は私であり、私だけがあなたの道だ」と語られているのです。

もう一度、主が「あなたの目を私に向ける時だ」と語られているのです。

私たちは人生に問題が無いと、主を切に切に求めることをしなくなります・・・

今まで抱えていた問題や孤独感、心の傷、ストレス、心の疲れ・・・沢山の思いから主の解放を感じた時、凄く主を崇める事が出来たと思います。

「あ~神さまって凄いな!」と感じた事があると思います。

その思いが薄れ、主以外を自分の心の王座に座わらそうとする時、主は私たちの道を隠されるのかもしれません。

私たちは絶望感を感じなければ、自分の実力、能力で生きていけると勘違いしていまい、主を見上げる事を忘れてしまうのです。

無意識のうちに、心から主を追い出して生きて行ってしまうのです。

しかし、絶望感を感じ自分には何もすることが出来ない。能力がなく力がないと実感することにより、主が働かれるのです。主の栄光を見る事が出来るのです。

道を失ったと感じた時は、この世的には絶望であり孤独です。

しかしキリスト者にとっては、主の呼びかけを受けている時であり、主の栄光を感じる事ができる機会なのです。

だから、絶望を感じた時は人のアドバイスに耳を傾けるのではなく、主を求め直す時だよ!と語りかけられているのです。

人生をもう一度、主にシフトする時でありチャンスなのです。

今日も、主を見上げ主の中で過ごす一日となりますように・・・

タイトルとURLをコピーしました